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正3-1-5『第三仏性』第一段その5〔全世界はこれまで何も蔵カクすものはなく、仏性が常に現れている〕

〔『正法眼蔵』本文〕

妄縁起モウエンギの有にあらず、徧界不曾蔵ヘンカイフスンゾウ《徧界曾カツて蔵カクサず》のゆえに。


徧界不曾蔵というは、かならずしも満界是有マンカイゼウ《満界是れ有》というにあらざるなり。


徧界我有ヘンカイガウは外道ゲドウの邪見なり。



〔抄私訳〕

・「妄縁起の有にあらず、徧界不曾蔵ヘンカイフスンゾウのゆゑに」〈悉有は、妄想によって起こる有ではない、全世界はこれまで何も蔵すものがないから〉とある。全世界であるから、「何も蔵カクすものがない」という道理があるのである。


・「徧界不曾蔵といふは、かならずしも満界是有というにあらざるなり」〈全世界はこれまで何も蔵すものがないというのは、必ずしも全世界が実在しているということではない〉とは、一般には、世界は世界という大きな空間であり、その内に雪などが降り積もるように森羅万象シンラバンショウが存在していると思っているが、そういうことではない。


・「徧界我有」とは、我々が全世界に広まっているように外道が説くが、道元禅師はこれを斥けられるのである。この「悉有」(すべての存在)は一般に理解していることを遙かに超えている。だから、あちこちでこの「悉有」の語を詳しく釈されるのである。この段は、「悉有」をどう理解すべきかを繰り返し言葉を尽して説いておられるのである。




〔『正法眼蔵』私訳〕

仏性は、妄想の縁起で生じたものではない。全世界はこれまで何も蔵カクすものはなく、仏性が常に現れているからである。(妄縁起の有にあらず、徧界不曾蔵ヘンカイフスンゾウ《徧界曾カツて蔵カクサず》のゆえに。)


全世界は何も蔵すものはなく仏性が常に現れているといっても、すべてが仏性の姿だなどと言うのは有相の病だ。(徧界不曾蔵ヘンカイフゾウゾウというは、かならずしも満界是有マンカイゼウ《満界是れ有》というにあらざるなり。)


我という大きな風呂敷で全世界を包むことのように仏性を考えると、有相をとどめる外道(仏道以外の教え)の間違った見方となる。(徧界我有は外道の邪見なり。)


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