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正1-13『第一現成公案』第十三段〔法が身心に充足すれば、どこか足らないと思われるものである〕

               

〔『正法眼蔵』原文〕      

身心シンジンに法いまだ参飽サンポウせざるには、法すでにたれりとおぼゆ。 

法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。  

たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方ヨモをみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相ソウみゆることなし。      

しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方ケタなるにあらず。 

のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿グウデンのごとし、瓔珞ヨウラクのごとし。  

ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法マンボウもまたしかあり。   

塵中格外ジンチュウカクゲ、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力サンガクガンリキのおよぶばかりを見取ケンシュ会取エシュするなり。

万法の家風をきかむには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。     

かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下ジキゲも一滴もしかあるとしるべし。    


〔抄私訳〕              

この「身心」はしばらく迷妄の衆生の身心に対して言われるのである。確かに、まだ悟りを得ていない時は、法〈ダルマ〉がすでに足りていると思われ(身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ)、法がもし身心に充足すれば、どこか足りないと思われるものである(法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり」)。もっとも、「足らずとおぼゆる」という言葉は、少しはっきりしないように思われる。世間でも本当に道を学べば、「切ればいよいよ堅く、仰げばいよいよ高し」という〔師の孔子に親近して自分の足らなさを知った弟子が師を讃仰する〕言葉があり、先ずこの一筋を書かれるのである。もっともまた、一つの法が究め尽している道理を「足らず」と説くとしても、決して道理と違わないのである。


また、〔第十段に〕舟の喩え〔「人が舟に乗って行く時に、目を遠くにやって岸を見れば、岸が移動すると見誤る。直接舟を見れば、舟が進んでいることに気づくように、身心を乱想して、万法を理解しようとすると、自分の心と本性は常に在るかのように思い誤る。もし身心のはたらき親しく行じて、大自然のありようであるこの身心〈箇裏〉に帰れば、あらゆるものが無我であるという道理が明らかになる。」〕があったが、これは文の通りで、明らかな証拠である。これは先ず世間の喩えである。


次に「かれがごとく、万法もまたしかあるなり」(それと同じように、あらゆるものもまたそのようである)という所より、仏法上の道理を説かれるのである。文のように、「かたはらのみかくのごとくにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし」(自分の周りだけがそのようにあるのではなく、自分の真下も、一滴もそのようであると知らなければならない)とあるのは、「ただわがまなこのおよぶところ」(自分の眼の及ぶ範囲)だけに執着してはならないということであり、「直下も一滴も」とあるのは、水の底も一滴の水も、どのような道理があろうかという意味合いである。   


〔聞書私訳〕        

/「たとへば」と言って、「船にのりて山なき海中にいでて四方を見るに」(船に乗って山が見えない大海に出て四方を見ると)、「残れる海徳つくすべからざるなり」残りの海のありようは尽きることがない)とあるのも、「宮殿のごとし、瓔珞ヨウラクのごとし」とあるのも、皆「法未だ参飽せざる」(法がまだ十分に会得されていない)ことの証しとして引かれたと思われる。法が充足する時は、法が足らないと思われる証しにはならないと思われるけれども、上の第七段に「声を聴取するに、親しく会取すれども、鏡に影を宿すが如くに非ず、水と月の如くに非ず(声を聴くときに親しく会得するけれども、鏡に影が宿るようなものではなく、水と月との関係のようなものではない)。「一方を証する時は一方はくらし」〈色・声を認識する時は、色・声以外は冥クラくて認識されない〉とある意味合いがこれである。この言葉はどんな所でも違わないであろう。生に充足するような時も、死に充足するような時も、また、悟りに充足するような時も、迷《これは仏法上の迷である》に充足するような時も、一方〈仏法上の悟〉は冥クラくて認識されないと言うことができる。     


/坐禅が「充足」するような時は、殺仏〈仏に成りきること〉するとも言うことができる。  


/「山なき海中にいでて」(山が見えない大海に出て行き)、円マルいと見えるのは、眼の方に従うのである。海のありようの方では、円いと見えるのも一つの海のありようである。そうではあるが、海のありようは尽きることがない。                


/「万法の家風をきかむには、方円とみゆる外に、のこりの海徳山徳多く極まりなく」(あらゆるもののありようを知ろうとすれば、四角或いは円と見える以外に、残りの海や山のかたちは限りがなく)と言う。この「外」という言葉がよくわからない。「方円」であることを認めて、方円の外の海のありようをも知るべきと理解すべきか。それとも、方円も妄見(誤った考え)の眼に見え、また、四方の世界をも知るべきと理解すべきか、どうか。   

「方円と見ゆるより外」とあるので、方円ではないと思われるけれど、方円の上にその外の海や山のありようをも知れば、方円でない道理も理解できるのである。         


/この方円の喩えは、迷悟と言うより外に、修行、生死、諸仏・衆生があることを知るべきと言うようなものである。    


/三界唯一心、心外無別法(三界は唯一心であり、心の外に別のもの無し)という「無」の字と、今の「方円と見ゆる外に」と言う「外」と同じである。方円によって四方の海のありようを知るからである。     


/心外無別法の「無」を心の上という意味合いは、「三界唯一心」という「一心」は、心の外に別の法(もの)はないと言っている時に、「無」は心の上と理解するのである。「方円と見ゆる外に残りの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることを知るべし」とは、〔方円と四方の世界が〕一つであるのでもなく、重なるのでもないのである。         


〔『正法眼蔵』私訳〕                        

身心に法がまだ十分に会得されていない時は、法がすでに足りていると思われる。(身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。)                      


法がもし身心に充足すれば、どこか足りないと思われるのである。(法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。) 


例えば、船に乗って山が見えない大海に出て四方を見ると、ただ円いとだけ見え、決して異なる様相が見えることがない。(たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方みるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。)                 


そうであるけれども、この大海は円いのでもなく、四角いのでもない。(しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方ケタなるにあらず。     


残っている海のありようは尽くすことができない。例えば、海は魚にとって宮殿のようであり、天人にとって宝石の首飾りのようである。(のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。)                  


ただ自分の眼が及ぶ範囲が、しばらく円く見えるだけである。(ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。)      


それと同じように、あらゆるものもまたそのようである。(かれがごとく、万法マンボウもまたしかあり。)


俗世間においても出世間においても、多くの様子を帯びているといっても、修行の眼力の及ぶ範囲だけを理解し会得するのである。(塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。)     


万法のありようを知ろうとすれば、四角や円と見える外に、残りの海や山のありようは限りがなく、四方の世界があることを知るべきである。(万法の家風をきかむには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。)


自分の傍ソバだけがそのようにあるのではなく、自分の足下も、水の一滴である自分もそのようにあると知るべきである。(かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下ジキゲも一滴もしかあるとしるべし。)                  


*注:《 》内は御抄編者の補足。〔 〕内は著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。

                             
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