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正1-6『第一現成公案』第六段〔諸仏である時、自己は諸仏であると覚知する人はなく、覚知することもない〕 

〔『正法眼蔵』本文〕                              

諸仏のまさしく諸仏なるときは、  

自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。              

しかあれども証仏ショウブツなり、仏を証ショウしもてゆく。                 


〔抄私訳〕                                                     諸仏が諸仏である時は、私こそ仏〈無我に目覚めている人〉だとは言わない。ただ諸仏は諸仏である。仏であるからには、覚知する人もいない。無限に遠い過去から具わっている覚知の理であるから「覚知することを用いず」と言い、「しかあれども証仏なり」と結ばれるのである。もっとも、また諸仏を覚知すると言っても理に背くことはない。この段は交差して書かれることもない。ただ諸仏がまさしく諸仏である姿を書かれたのである。                 

「諸仏のまさしく諸仏なるとき」とは、十方のすべての世界がすべて仏であるということである。その時覚知は用いられない。「自己は諸仏なり」と、自己を主体とし仏を客体とするようでは、覚知を離れることはできない。この覚知は、普通は対象に対して言うのであるが、諸仏が正しく諸仏であるときは、覚知する自己もなく、覚知もない。そのまま「しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく」(そうであるけれども、仏を実証するのであり、仏を実証し続けていく)と言うのである。この「証」は証する者と証されるものがない証である。「証しもてゆく」といっても、証する人がいるのではない。「証仏」はただこのように「証しもてゆく」ことを「証」と言うのである。                    〔聞書私訳〕                                    /この「証」は修行の結果得られる証ではなく、ただ「仏」〈無我に目覚めている人〉である。だから、「証しもてゆく」のもまた「仏」である。「諸仏」も「証仏」も同じ言葉である。 


〔『正法眼蔵』私訳〕                                             諸仏がまさに諸仏である時、自己は仏(無我に目覚めている人〉であると覚知する人はなく、覚知することもない。(諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。)                                

そうであるけれども、仏を実証するのであり、仏を実証し続けていくのである。(しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。)                         


〔『正法眼蔵』評釈〕                                

「諸仏」とは何でしょうか?昔の歌に、「主なくして見聞ケンモン覚知する人を、生き仏とは、これをいうなり」というのがあります。自分という主人公なしで、視覚する・聴覚する・嗅覚する・味覚する・触覚する・知覚する(見聞覚知する)人を、生き仏だと言うのですね。

見えるけれど、自分が見るのではありません。聞こえるけれど、自分が聞くのではありません。臭いはあるけれど、自分が嗅ぐのではありません。味はするけれど、自分が味わうのではありません。触覚はあるけれど、自分が感覚するのではありません。知覚はあるけれど、自分が知覚するのではないのです。

自分という主人公なしで、縁に触れて、六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の感覚器官)と六境(感覚器官の対象である色声香味触法)が一つになって、見聞覚知が生じ滅し、後に何も残らないのです。自分がないから相手もなく、比較もなく、何の問題もないのです。                             

主人公はどこにもいないのですね。「身の破れ、果てたるときの心こそ、実に万法一如マンボウイチニョなりけり」。主人公なしで、縁に触れて、ただ六根の機能と六境の環境との作用に任せて、あらゆるものと一如(一体)になりながら、主人公がいないいのちの働きがただ生じ滅し、コロコロコロコロところがっていく。それを「諸仏」と言うのではないでしょうか。 

注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。
                                 合掌
                               

                                 

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