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正1-5 『第一現成公案』第五段〔迷っても悟っても、どんな人でも尽十方界真実人体の人である〕  

〔『正法眼蔵』本文〕                     

迷を大悟ダイゴするは諸仏なり、悟に大迷ダイメイなるは衆生なり。  

さらに悟上に得悟トクゴする漢あり、迷中又迷メイチュウユウメイの漢あり。     


〔抄私訳〕                            「迷」〈無数にある思いの一つでしかない自分という思いに振り回されること〉を「大悟」するのを「諸仏」〈無我に目覚めている人〉と言い、「悟」〈無我に目覚めること〉に「大迷」であるのを「衆生」無数にある思いの一つでしかない自分という思いに振り回されている人〉と言う。これは一般には、凡夫たちが習い覚えていることと同じとされようが、これはそういうたぐいではない。

迷と悟も、諸仏と衆生も、ただ同じことであり、違いはない。だから「悟の上で悟る」、「迷の中でまた迷う」と結ばれるのである。ただ第一段の「諸法の仏法なる時節」〈今向かうとこのようにある時:現成公案〉の迷・悟、諸仏・衆生等を互い違いにして書かれたのである。

「漢」とは人である。突然人が特別に出てきたようだけれども、この人は、尽十方界である真実人体の人であり、「悟の上」を尽十方界である真実人体の人と言い、「迷の中」を尽十方界である真実人体の人と言うと理解すべきである。      


〔『正法眼蔵』私訳〕                         

無数にある思いの一つでしかない自分という思いに振り回されながら無我であることに目覚めるのは諸仏であり、無我に目覚めていながら自分という思いに振り回されるのは衆生である。(迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。)            

無我に目覚めている上で更に無我に目覚める尽十方界真実人体の人もあり、無数にある思いの一つでしかない自分という思いに振り回される中にあって更に自分という思いに振り回される尽十方界真実人体の人もいる。だから、迷っても悟っても、どんな人でも尽十方界真実人体の人なのである。(さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。)         


注:( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。
                                 合掌
                               

                                 

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