スキップしてメイン コンテンツに移動

正1-2-1 『第一現成公案』 第二段〔万法ともにわれにあらざる時節:あらゆるものにも私にも不変の実体がない時節〕  

〔『正法眼蔵』本文〕                                    

万法マンボウともにわれにあらざる時節、                        

まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。           


〔抄私訳〕                                                    この「われ」は万法の「われ」〈あらゆるものと一体であり無我である自己〉であり、吾我〈実在していないが、観念の中で在ると錯覚される自分〉の「観念のわれ」ではない。〔観念とは、人間が意識の対象について持つ、主観的な像である。心理学的には、具体的なものがなくても、それについて心に残る印象でしかない。〕この「無」の語は、有無が相対する「無」ではない。仏性の上において有無を論じるのは、或いは、「即心是仏ソクシンゼブツ(この心がそのまま仏である)の上での「非心非仏」(即心是仏の言葉に執着した者に、心にあらず仏にあらずと説いたが、両方同じ道理)であり、会エ(分かる)の上での不会フエ(分からない)、見仏(仏を見る)の上での不見仏(仏を見ない)というほどのことである。もっとも、これも万法が究尽している時は、諸仏〈無我に目覚めている人〉と衆生〈思いの中にしかない自分に振り回わされている人〉とを分ける境目もないから、これを「無し」と言っても支障はないのである。                      

〔聞書私訳〕                                    /第一段の「有り、有り」を「無し、無し」に替えて、「諸法の仏法なる時節、即ち迷無く悟無く、諸仏無く衆生無く、生無く滅無し」とも説くことができるのである。しかし、仏法で「無明(真理に暗いこと)(すなわち)法性(法の本質、法性即無明」などと説いているからといって、善も悪もただ同じことだという間違った考えの連中がいる。このような考えには、十分に注意しなければならない。                           

/例えば、世間に火があり、この火が民家を焼き払い、人畜をも焼き殺し、また堂塔、仏像、経典をも焼くことがあるが、またその後に堂塔を造るときも、仏像を作るときも、火を用い離れることはない。旨として仏には燈明を挙げ焼香を用いる。そうであるけれども、火が及ぼす善悪は天と地ほどの違いがある。このように、目の前のものについても明らかに見ることができる。今の迷悟は仏法上のことである。善悪も迷悟もただ同じことだと言ってはならない。この火の喩えにおいても明らかである。                  

/この第二段は前後に連ねて、前の第一段と同じことを再び説いているのである。「諸法の仏法なる時節」〈今ここがこのようにある時節〉こそ、この段の「万法のともに我にあらざる時節」〈あらゆるものにも私にも不変の実体がない時節〉である。前の段で、迷悟・修行・生死・諸仏衆生「有り」と言ったが、どれも世間で言う「有り」ではない。万法(あらゆるもの)が仏法であるようなときは、迷悟、仏衆生、生滅と言うことはない。今、「無し、無し」と言うのも、前の段でただ「有り、有り」と言うのと同じである。有無の字を世間のように使ってはならない。仏法でない時に、迷と言うことができるであろうか。仏法なる時節にのみ、迷と言うことができるのである。迷だけがあるような時は、誰が迷という名をつけることができようか。

『法華経』の『方便品ホウベンボン』(衆生救済のための便宜上の手段の章)という名は理解し難い。実相(真実のすがた)を説く章であるから実相品とも言うべきか、あるいは方便実相品とも言うことができる。そうであるのに、『法華経』以前に説かれた経を『方便品』と言うのである。〔この一文は御抄の原文が不鮮明のようです。以前の経と今の経で方便の意味が異なることを言う。〕

或いは、二乗(声聞乗と縁覚乗)の教えも、自分自身は方便であると知らないし、方便であると言わない。今の法華の時に、二乗の人がその教えが方便であると知った時に、方便であると説くところに、そのまま実相(真実のすがた)は現れるのである。実相が現れるとき方便の言葉が出て来るように、「迷」とは「仏法なる時節」に言われるものだと知るべきである。

「迷」というのも、「悟」というのも、日頃の我々のものの見方と同じはないから、並べて「迷悟有り」と説くのである。悟も迷に対して理解した時の悟ではないのである。「仏」も「衆生」もまた同じであり、「尽十方界真実人体」(十方のあらゆる世界はそのまま仏の姿であり、仏性の顕現である)の衆生である。仏と説くときは、衆生を残すことはない。悟と説くときは、迷が残ることはないと言う。これも、一重ヒトエ(それ一枚だけで他と重ならないこと)の道理である。親切に言うときは、ただ「迷悟」二つ並べて言っても支障がないことを、「仏法なる時節」と言うのである。     

*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。

                                 合掌

最後までお読みいただきありがとうございます。皆さまに『正法眼蔵』に触れていただける機会をご提供したく、ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       
  ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ にほんブログ村  にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ にほんブログ村      


にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国湖南長沙 チョウシャ 招賢大師、上堂示衆云 ジシュウニイワク    尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》    尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》    尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》    尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》    尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》    尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》  仏道の参学、かならず勤学 ゴンガク にすべし。 転疎転遠 テンソテンノン なるべからず。 これによりて光明を学得せる作家 ソカ 、まれなるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、 (大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云) 尽十方界 (全世界) は、沙門 (修行僧) の眼 (私がなく見えるままの眼) である。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界は、沙門の日常の語である。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界は、沙門の全身である。 (尽十方界、是れ沙門の全身) 尽十方界は、自己の光明である。 (尽十方界、是れ自己の光明) 尽十方界は、自己の光明の中にある。 (尽十方界、自己の光明裏に在り) 尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。 (尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し) 仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。 (仏道の参学、かならず勤学にすべし。) 光明と疎遠であってはならない。 (転疎転遠なるべからず。) 光明と疎遠であって光明を自己のものにできた 作家 (仏道に弟子を導くことができる優れた師家) は、希なものである。 (これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。) 尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

人間の目の素晴らしい働き 番外編

  皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。 動画: 正法眼蔵(人間の目の素晴らしい働き) 尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうご ざいます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。  まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。 目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。 自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。 私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。 写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村