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無言の坐禅が無上菩提を説きぬいている『第十六行持』16-11-2a

〔『正法眼蔵』原文〕 

 四十年のあひだ世財をたくはへず、常住に米穀なし。


あるいは栗子リッス・椎子スイスをひろうて食物ジキモツにあつ、

あるいは旋転飯食センテンボンジキす。


まことに上古龍象リュウゾウの家風なり、恋慕すべき操行ソウギョウなり。                             

あるとき衆シュにしめしていはく、

「你若一生不離叢林、不語十年五載、無人喚你作唖漢、已後諸仏也不奈你何フナイニオ

《你ナンヂ若し一生叢林を離れず、不語なること十年五載ならんには、

人の你を喚んで唖漢アカンと作す無し、已後には諸仏も也マタ不奈你何ならん》」。


これ、行持をしめすなり。      


しるべし、十年五載の不語、おろかなるに相似ソウジせりといへども、

不離叢林の功夫によりて、不語なりといへども唖漢にあらざらん。


仏道かくのごとし。


仏道声ショウをきかざらんは、不語の不唖漢なる道理あるべからず。


しかあれば、行持の至妙は不離叢林なり。


不離叢林は脱落なる全語なり。


至愚のみづからは不唖漢をしらず、不唖漢をしらせず。


阿誰オスイカか遮障シャショウせざれども、しらせざるなり。


不唖漢なるを得恁麽トク インモなりときかず、

得恁麽なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり。


不離叢林の行持、しづかに行持すべし、

東西の風に東西することなかれ。


十年五載の春風秋月、

しられざれども声色透脱ショウシキ トウダツの道ドウあり。


その道得、われに不知なり、われに不会フエなり。


行持の寸陰を可惜許カシコなりと参学すべし。


不語を空然クウネンなるとあやしむことなかれ。


入之ニュウシ一叢林なり、出之シュッシ一叢林なり、

鳥路チョウロ一叢林なり、徧界ヘンカイ一叢林なり。 




〔『正法眼蔵』私訳〕  

趙州は、住職であった四十年の間、

世間的な財物を蓄えず、食材の保管場所に米穀はなかった。

(四十年のあひだ、世財をたくはへず、常住に米穀なし。)


クリの実や椎シイの実を拾って食物に充て、

或いは順次食事当番にあたって食事をとった。

(あるいは栗子、椎子をひろうて食物にあつ、あるいは旋転飯食す。)                                      


正に大昔の優れた識見・力量の備わった禅僧の家風であり、

敬慕すべき行いである。

(まことに上古龍象の家風なり、恋慕すべき操行なり。)                          


あるとき、趙州が大衆に示して、「お前たちがもし一生禅林を離れず、無言で五年十年と坐禅をしても、誰もお前たちを聴覚障害者とは呼ばないであろう。後には、諸仏もお前たちをどうすることも出来ないであろう」と言った。

(あるとき、衆にしめしていはく、「你若し一生叢林を離れず、不語なること十年五載ならんには、人の你を喚んで唖漢と作す無し、已後には諸仏も也你を奈何ともせじならん」。)


これが行持というものを示しているのである。

(これ行持をしめすなり。)                                  


知らなければならない、五年十年の無言の坐禅は、愚かなように見えても、

禅林を離れない精進によって、無言であっても聴覚障害者ではないのである。

(しるべし、十年五載の不語、おろかなるに相似せりといへども、

不離叢林の功夫によりて、不語なりといへども唖漢にあらざらん。)


仏道とはこのようなものなのである。

(仏道かくのごとし。)                                      


仏道の声(坐禅が無言で無上菩提を説き抜いている声)を聞かない者には、

無言が聴覚障害者でない道理はないのである。

(仏道声をきかざらんは、不語の不唖漢なる道理あるべからず。)           


そうであるから、最も絶妙な行持は、禅林を離れず修行することである。

(しかあれば、行持の至妙は不離叢林なり。)


禅林を離れず修行するとは、

一切を脱落し無上菩提を説きぬいている完全な表現である。

(不離叢林は脱落なる全語なり。)                          


至って愚かな者は、自ら坐禅をしていながら無言の坐禅が無上菩提を説きぬいていることを知らず、無言の坐禅が無上菩提を説きぬいていることを知らせることもしない。

(至愚のみづからは不唖漢をしらず、不唖漢をしらせず。)


誰も邪魔をしないけれど、知らせないのである。

(阿誰か遮障せざれども、しらせざるなり。)                              


坐禅が無上菩提を説き抜いているのに、無上菩提を得ていると聞かず、

無上菩提を得ていると知らないのは、憐れむべき自己である。

(不唖漢なるを得恁麽なりときかず、得恁麽なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり。)                                            


禅林を離れない修行を静かに行持すべきである。

世間の風に吹かれて右往左往してはならない。

(不離叢林の行持、しづかに行持すべし、東西の風に東西することなかれ。)          


禅林を離れず修行する五年十年の歳月は、

自ら知らなくても春風(声)が春風を脱落し、

秋月(色)が秋月を脱落していることを説きぬいているのである。

(十年五載の春風秋月、しられざれども、声色透脱の道あり。)


その説き抜いている事実は、

自ら知らず、自ら分からないのである。

(その道得、われに不知なり、われに不会なり。)           

              

行持のわずかな時間も惜むだけだと参学すべきである。

(行持の寸陰を可惜許なりと参学すべし。) 

                                                   

無言を空しいことだと疑ってはならない。

(不語を空然なるとあやしむことなかれ。)         


入るも禅林、出るも禅林〔、どこもかしこもすべて禅林〕である。

(入之一叢林なり、出之一叢林なり。)


鳥の飛ぶ空も禅林であり、全世界も禅林である。

(鳥路一叢林なり、徧界一叢林なり。)


 無言の坐禅が無上菩提を説きぬいている『第十六行持』16-11-2b

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