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涙を見ては涙を重ね、我が身を省みては我が身を省みた『第十六行持下』16下-9-2

 〔『正法眼蔵』原文〕

この教オシエをきゝて、祖すなはち少室峰に参ず。


神はみづからの久遠修道クオンシュドウの守道神シュドウジンなり。


このとき窮臈寒天キュウロウカンテンなり。十二月初九夜といふ。


天大雨雪テンダイウセツならずとも、深山高峰の冬夜トウヤは、

おもひやるに、人物の窓前に立地すべきにあらず、

竹節チクセツなほ破す、おそれつべき時候なり。


しかあるに、大雪匝地ダイセツソウチ、埋山没峰マイセンモッポウなり。


破雪して道をもとむ、いくばくの嶮難なりとかせん。


つひに祖室にとづくといへども、

入室ニッシツゆるされず、顧眄コメンせざるがごとし。


この夜、ねぶらず、坐せず、やすむことなし。


堅立ケンリュウ不動にしてあくるをまつに、夜雪ヤセツなさけなきがごとし。


やゝつもりて腰をうづむあひだ、おつるなみだ滴々こほる。


なみだをみるになみだをかさぬ、身をかへりみて身をかへりみる。


 自惟ジユイすらく、


 昔人求道、敲骨取髓、刺血済饑。布髪淹泥、投崖飼虎。

古尚若此、我又何人。

《昔の人、道を求むるに、骨を敲ちて髓を取り、血を刺して饑ウエを済スクい、

 髪を布きて泥を淹オオひ、崖に投げて虎に飼う。古イニシエ尚此カクの若ゴトし、我又何人ぞ》


 かくのごとくおもふに、志気シイキいよいよ励志あり。


 いまいふ「古尚若此コショウニャクシ、我又何人ガユウガニン」を、

晩進もわすれざるべきなり。


しばらくこれをわするるとき、永劫ヨウゴウの沈溺チンジャクあるなり。


 かくのごとく自惟ジユイして、法をもとめ道をもとむる志気のみかさなる。


澡雪ソウセツの操を操とせざるによりて、しかありけるなるべし。


遅明チメイのよるの消息、はからんとするに肝胆カンタンもくだけぬるがごとし。


たゞ身毛の寒怕カンハクせらるゝのみなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

この教えを聞いて、二祖は少林寺のある少室峰に行った。

その神は自分が永遠の過去から修行してきた守護神である。

(この教をきゝて、祖すなはち少室峰に参ず。

 神はみづからの久遠修道の守道神なり。)


時は十二月の寒い日、十二月初旬九日の夜であったと言う。

天が大いに雪を降らせなくても、深山高峰の冬の夜は、

想像するに、人間が窓の外に立っていられるものではなく、

竹の節さえ割れるほどの、恐るべき時候である。

(このとき窮臈寒天なり。十二月初九夜といふ。

天大雨雪ならずとも、深山高峰の冬夜は、おもひやるに、

人物の窓前に立地すべきにあらず、竹節なほ破す、おそれつべき時候なり。)


それなのに、大雪が地を覆い、山を埋め峰をかくすほどであった。

雪をかき分けて道を求めることが、どれほど難儀なことであったか。

(しかあるに、大雪匝地、埋山沒峰なり。

 破雪して道をもとむ、いくばくの嶮難なりとかせん。)                              


ついに初祖の室に行き着いたが、室に入ることを許されず、

振り向いてちらっと見る様子もない。二祖はその夜、眠らず、

坐らず、休むことがなかった。真っ直ぐに立って動かず夜が明けるのを

待ったが、夜の雪は情けを知らぬかのように降り続けた。

(つひに祖室にとづくといへども、入室ゆるされず、顧眄せざるがごとし。

 この夜、ねぶらず、坐せず、やすむことなし。

 堅立不動にしてあくるをまつに、夜雪なさけなきがごとし。)


だんだん積もって腰を埋めていく間、落ちる涙が一滴一滴凍った。

涙を見ては涙を重ね、我が身を省みては我が身を省みた。

(やゝつもりて腰をうづむあひだ、おつるなみだ滴々こほる。

 なみだをみるになみだをかさぬ、身をかへりみて身をかへりみる。)


 自ら思いめぐらすに、

 (自惟すらく、)

 「昔の人は、道を求めるために、自分の骨をたたいて髄を取り出し、

或いは自分の身を刺して飢えたものに施し、或いは仏のために自分の髪を

敷いて泥を覆い、或いは崖から身を投げて飢えた虎に与えた。

昔の人でさえこのようであった、私は一体何者か」と。

(昔の人、道を求むるに、骨を敲ちて髓を取り、血を刺して饑を済い、

髪を布きて泥を淹い、崖に投げて虎に飼ふ。古尚此の若し、我又何人ぞ。)


 このように思うと、求道の志はますます強くなった。

 (かくのごとくおもふに、志気いよいよ励志あり。)


 今言う「昔の人でさえそのようであったのに、私は一体何者か」

という言葉を、後進の者も忘れてはならない。しばらくでもこれを忘れると、永遠に浮かび上がることができなくなるのである。

(いまいふ「古尚若此、我又何人」を、晩進もわすれざるべきなり。

 しばらくこれをわするるとき、永劫の沈溺あるなり。)


 二祖はこのように自ら思いめぐらして、

法を求め道を求める志がますます強くなったのである。

雪で身を洗うような修行を問題にしなかったから、こうなったのである。

(かくのごとく自惟して、法をもとめ道をもとむる志気のみかさなる。

 澡雪の操を操とせざるによりて、しかありけるなるべし。)


天の明けるのを待つ様子は、推し量ろうとすれば肝がつぶれてしまいそうな

ほどであり、ただ身の毛のよだつ思いがするだけである。

(遅明のよるの消息、はからんとするに肝胆もくだけぬるがごとし。

 たゞ身毛の寒怕せらるゝのみなり。)


            合掌


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