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理解できなかったために、達磨大師を禅定の修練をする者とした『第十六行持下』16下-3-3

〔『正法眼蔵』原文〕                             

石門林間録云、菩提達磨、初自梁之魏。経行於嵩山之下、倚杖於少林。

面壁燕坐而已、非習禅也。久之人莫測其故。因以達磨為習禅。

夫禅那、諸行之一耳。何足以尽聖人。而当時之人、以之、為史者、

又従而伝於習禅之列、使与枯木死灰之徒為伍。雖然、聖人非止於禅那。

而亦不違禅那。如易出于陰陽、而亦不違乎陰陽。


《 石門の林間録に云く、「菩提達磨、初め梁より魏に之く。


嵩山の下フモトに経行キンヒンし、少林に倚杖イジョウす。


面壁燕坐エンザするのみなり、習禅には非ず。


久しくなりて人 其の故ユエを測ること莫し。


ヨッて達磨を以て習禅とす。


夫れ禅那は、諸行の一つのみなり、何ぞ以て聖人を尽すに足らん。


而も当時の人、之を以てし、為史の者、又従って習禅の列に伝ツラね、

枯木死灰の徒トモガラと伍トモならしむ。


然りと雖も、聖人は禅那に止まるのみに非ず、而も亦 禅那に違せず。


易の陰陽より出でて、而も亦 陰陽に違せざるが如し》            

 梁武初見達磨之時、即問、「如何是聖諦第一義」。       

《梁武初めて達磨を見し時、即ち問う、「如何ならんか是れ聖諦第一義」》               


答曰コタエテイワク、「廓然無聖カクネンムショウ」。


進曰ススンデイワク、「対朕者誰《朕に対する者は誰そ》」。   


又曰、「不識フシキ」。                      


使達磨不通方言、則何於是時、使能爾耶。            

《もし達磨方言ホウゴンに不通ならんには、則ち何ぞ是の時に於て、

能くしかあらしむるにいたらんや》    



〔『正法眼蔵』私訳〕                            

石門洪覚範コウカクハンの『林間録』に言う、

「菩提達磨は、初め梁の国から魏の国に赴いた。


そして嵩山のふもとに行き少林寺に逗留した。


壁に向かって坐禅しただけで、禅定の修練ではなかった。


長い間、人はその真意を理解できなかったために、

達磨大師を禅定の修練をする者とした。


そもそも禅定とは、多くの修行の中の一つに過ぎない。


どうして禅定だけで、聖人を極めることができようか。


しかも当時の人はこのように考え、歴史家(南山の道宣律師)

同じように大師を禅定を修練する者の部類に篇入し、

枯れ木や冷えた灰のような者(小乗の者)と同列に扱ったのである。


しかしながら、この聖人は、禅定だけではなく、

しかも禅定に背くことはない。


それは易が陰陽の二気から出て、しかも陰陽に背かないようなものである」。


(石門の林間録に云く、「菩提達磨、初め梁より魏に之く。嵩山の下に経行し、少林に倚杖す。面壁燕坐する已なり、習禅には非ず。久しくして人 其の故を測ること莫し。因て達磨を以て習禅と為す。夫れ禅那は、諸行の一なるのみ、何ぞ以て聖人を尽すに足らん。而も当時の人、之を以てす。為史の者、又従って習禅の列に伝ね、枯木死灰の徒と伍ならしむ。然りと雖も、聖人は禅那に止まるのみに非ず、而も亦 禅那に違せず。易の陰陽より出でて、而も亦 陰陽に違せざるが如し」。) 


梁の武帝は、初めて達磨に会った時に、

「聖なる第一の真理とは何か」と尋ねた。

(梁武初めて達磨を見し時、即ち問う、「如何ならんか是れ聖諦第一義」。)                      


師は、「からりと開けており、凡聖の区別はなく

一切は正法眼蔵涅槃妙心である(一切衆生悉有仏性)」と言った。

(師曰く、「廓然無聖」。)      


武帝は、「朕に対する者は誰か」と言った。

(帝曰く、「朕に対する者は誰そ」。)          


師は、「知らぬ」と言った。(又曰く、「不識」。)


もし達磨大師が中国語に通じていなければ、

この時にどうして、このような対応が出来たであろうか。

(もし達磨をして方言に不通ならんには、則ち何ぞ是の時に於て、

能くしかあらしむるにいたらんや。)



              合掌


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