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即位の後も、昼夜に坐禅した『第十六行持』16-21-3

〔『正法眼蔵』原文〕 

 のちに杭州コウシュウ塩官斉安国師エンカンサイアン コクシの会にいたりて、

書記に充ジュウするに、黄檗オウバク師、ときに塩官の首座シュソに充す。

ゆゑに黄檗と連単なり。


黄檗、ときに仏殿にいたりて礼仏ライブツするに、書記いたりてとふ、

「不著仏求フヂャクブツグ、不著法求、不著僧求、長老用礼何為ヨウライオイ《仏に著いて求めず、法に著いて求めず、僧に著いて求めず、長老礼を用いて何ナニにかせん》」。


 かくのごとく問著モンジャクするに、黄檗便掌して、沙弥書記にむかひて道ドウす、「不著仏求フヂャクブツグ、不著法求、不著僧求。常礼如是事ジョウライニョゼジ《仏に著いて求めず、法に著いて求めず、僧に著いて求めず、常に如是の事を礼す》」。


 かくのごとく道ドウしをはりて、又掌ショウすること一掌す。               

書記いはく、「太麁生タイソセイなり」。


 黄檗いはく、「遮裏是什麽所在シャリシシモショザイ、更説什麽麁細コウセツシモソサイ

《遮裏は是れ什麽イカなる所在トコロなればか、更に什麽ナニの麁細ソサイをか説く》」。                       また書記を掌すること一掌す。                           書記ちなみに休去キュウコす。


 武宗
ブソウののち、書記つひに還俗ゲンゾクして即位す。

武宗の廃仏法ハイブッポウを廃して、宣宗すなはち仏法を中興す。

宣宗は即位在位のあひだ、つねに坐禅をこのむ。未即位のとき、父王のくにをはなれて、遠地オンチの渓澗ケイカンに遊方ユホウせしとき、純一に辨道す。
即位ののち、昼夜に坐禅すといふ。

まことに、父王フオウすでに崩御す、兄帝また晏駕アンガす、
をひのために打殺タセツせらる、あはれむべき窮子グウジなるがごとし。

しかあれども、励志レイシうつらず辨道功夫す。
奇代キタイの勝躅ショウチョクなり、天真の行持なるべし。



 〔『正法眼蔵』私訳〕 

後に杭州の塩官斉安国師の門下に入って、書記(記録を司る役僧)に充てられたが、黄檗禅師は、そのとき塩官の首座(修行僧の第一座)であった。〔僧堂での席順は首座の次が書記である。〕だから黄檗の隣の席であった。      (のちに杭州塩官斉安国師の会にいたりて、書記に充するに、黄檗禅師、ときに塩官の首座に充す。ゆゑに黄檗と連単なり。)

黄檗が仏殿に行って仏を礼拝していたとき、書記がやって来て問うた、  

「仏に求めず、法に求めず、僧に求めず、というのに

首座和尚は礼拝して何を求めるのですか」。                         

(黄檗ときに仏殿にいたりて礼仏するに、書記いたりてとふ、「仏に著いて求めず、法に著いて求めず、僧に著いて求めず、長老礼を用いて何にかせん」。)


このように問うと、黄檗はいきなり平手打ちして、沙弥の書記に向かって言った、「仏に求めず、法に求めず、僧に求めず、いつもこのように礼拝しているのだ」。                             

(かくのごとく問著するに、黄檗便掌して、沙弥書記にむかいて道す、          「仏に著いて求めず、法に著いて求めず、僧に著いて求めず、常に如是の事を礼す」。)


このように言いおわって、また一つ平手打ちした。           

(かくのごとく道しをはりて、又掌すること一掌す。)                                               


書記が言った、「なんと乱暴な」。                   

(書記いはく、「太麁生なり」。)


黄檗が言った、「ここをどこと心得て、今更乱暴だなどと言うのか」。   

(黄檗いはく、「遮裏は是れ什麽の所在なれば、更に什麽の麁細をか説く」。)                       


また書記を一つ平手打ちした。                    

(また書記を掌すること一掌す。)                


書記はそこで黙った。                        

(書記ちなみに休去す。)


武宗が亡くなった後、書記はついに還俗して帝位についた。

武宗の廃仏の法令を廃止し、宣宗は仏法を再興した。                 宣宗は即位し在位の間、常に坐禅を好みつとめた。                            

(武宗ののち、書記つひに還俗して即位す。武宗の廃仏法を廃して、

宣宗すなはち仏法を中興す。宣宗は即位在位のあひだ、つねに坐禅をこのむ。)


まだ即位していないとき、父王の国を離れて、遠方の渓谷を行脚した時も、純一に坐禅弁道した。即位の後も、昼夜に坐禅したと言う。          

(未即位のとき、父王のくにをはなれて、遠地の渓澗に遊方せしとき、純一に辨道す。    

即位ののち、昼夜に坐禅すといふ。)


まことに、父王が早く崩御し、兄王もまた崩御し、甥のために打ち殺されるなど、気の毒な困窮した子のようである。    

(まことに、父王すでに崩御す、兄帝また晏駕す、をひのために打殺せらる、あはれむべき窮子なるがごとし。)


そうであるが、仏道に励む志は変わることなく坐禅弁道し、世にも稀な優れた跡形であり、純粋な仏祖の行持である。        

(しかあれども、励志うつらず辨道功夫す。奇代の勝躅なり、天真の行持なるべし。)



              合掌


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