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わが宗は、お前に到って大いに世に興るであろう『第十六行持』16-20-2

 〔『正法眼蔵』原文〕

師在黄檗、与黄檗栽杉松次、黄檗問師曰、「深山裏、栽許多樹作麽」。         《師、黄檗オウバクに在りしとき、黄檗と与トモに杉松サンショウを栽うる次ツイでに、

  黄檗、師に問うて曰く、「深山の裏ウチに許多ソコバクの樹を栽えて作麽ソモ)」》

師曰、「一与山門為境致、二与後人作標榜」。乃将鍬拍地両下。            《師曰く、「一には山門の与タメに境致キョウチと為し、二には後人の与に標榜ヒョウボウと作す」。スナハち鍬クワを将モッて地を拍つこと両下リョウゲす》                                     


黄檗拈起拄杖曰、「雖然如是、汝已喫我三十棒了也。

《黄檗、拄杖シュジョウを拈起ネンキして曰く、

「然シカも是カクの如くなりと雖も、汝已スデに我が三十棒を喫し了オワれり」》

師作嘘嘘声《師、嘘嘘声キョキョセイをなす》。                         


黄檗曰、「吾宗到汝大興於世」。

《黄檗曰く、「吾が宗、汝に到って大いに世に興らん」》    


しかあればすなはち、得道ののちも杉松などをうゑけるに、てづからみづから鍬柄シュウヘイをたづさへけるとしるべし。


「吾宗到汝大興於世ゴシュウ トウニョ ダイコウ オセ」これによるべきものならん。


栽松道者サイショウドウジャの古蹤コショウ、まさに単伝直指タンデン ジキシなるべし、

黄檗も臨済とともに栽樹するなり。


黄檗のむかしは、捨衆シャシュして大安精舎ダイアン ショウジャの労侶ロウリョに混迹コンセキして、殿堂デンドウを掃洒ソウサイする行持あり。


仏殿を掃洒し、法堂ハットウを掃洒す。


心を掃洒すると行持をまたず、ひかりを掃洒すると行持をまたず。


裴相国ハイショウコクと相見ショウケンせし、この時節なり。 



〔『正法眼蔵』私訳〕

臨済が黄檗禅師の所にいたとき、

黄檗とともに杉や松を植えていた際に、黄檗が臨済に尋ねて言った、

「こんな深い山の中に沢山の木を植えてどうするつもりか」。

(師、黄檗に在りしとき、黄檗と与に杉松を栽うる次でに、

黄檗、師に問うて曰く、「深山の裏に許多の樹を栽えて作麽」。)      


臨済が言った、「一つには寺院のために景観を整え、二つには後の人のためにめじるしとするのです」。そう言って鍬で地を二度打った。

(師曰く、「一には山門の与に境致と為し、二には後人の与に標榜と為す」。乃ち鍬を将て地を拍つこと両下す。


すると黄檗は拄杖を採り上げて言った、

「それはその通りであるが、お前はすでにわしの三十棒をくらいおわっておるぞ。

(黄檗、拄杖を拈起して曰く、「然も是の如くなりと雖も、汝已に我が三十棒を喫し了れり」。)

〔これは、「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、臨済義玄に附属す」という印可の言葉である                                                   


臨済は、思わず声に出して溜息をついた。

(師、嘘嘘声をなす。)                   


すると黄檗が、「わが宗は、お前に到って大いに世に興るであろう」と言った。

(黄檗曰く、「吾が宗、汝に到って大いに世に興らん」。)


このように、臨済が〔大愚のところで〕悟りを得たのちも杉や松などを植えたが、自分自身で自ら鍬の柄を持って植えたことを知らなければならない。

(しかあればすなわち、得道ののちも杉松などをうゑけるに、

てづからみづから鍬柄をたづさへけるとしるべし。)


黄檗が「わが宗は、お前に到って大いに世に興るであろう」と言ったのも、

この行持によるものである。

(「吾宗到汝大興於世」、これによるべきものならん。)


栽松道者サイショウドウジャ(松を植える道者)と呼ばれた五祖大満弘忍ダイマンコウニン禅師の行跡を、臨済がまさにそっくりそのまま伝え直接指し示したのである。

黄檗も臨済とともに樹を植えたのである。

(栽松道者の古蹤、まさに単伝直指なるべし、黄檗も臨済とともに栽樹するなり。)


黄檗は昔、弟子たちと別れて、大安寺の労役人に紛れ込んで、伽藍を掃き清める行持をした。仏殿を掃き清め、法堂を掃き清めたのである。

(黄檗のむかしは、捨衆して大安精舎の労侶に混迹して、殿堂を掃灑する行持あり。

仏殿を掃洒し、法堂を掃洒す。)


心を掃き清めようとして行持をしたのでもなく、仏の光明を明らめようとして行持をしたのでもなかった。〔ただ行持のために行持したのである。〕

宰相サイショウの裴休ハイキュウと会ったのは、この頃である。

(心を掃洒すると行持をまたず、ひかりを掃洒すると行持をまたず。

裴相国と相見せし、この時節なり。)


               合掌


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