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臨済の修行は純一でその行持はずば抜けていた『第十六行持』16-20-1

〔『正法眼蔵』原文〕

 臨済院慧照大師リンザイイン エショウ ダイシは、黄檗オウバクの嫡嗣テキシなり。


黄檗の会にありて三年なり。純一に辨道するに、睦州陳尊宿ボクシュウチン ソンシュクの教訓によりて、仏法の大意ダイイを黄檗にとふこと三番するに、かさねて六十棒を喫キッす。なほ励志レイシたゆむことなし。


大愚ダイグにいたりて大悟することも、すなはち黄檗、睦州両尊宿の教訓なり。祖席の英雄は臨済・徳山といふ。


しかあれども、徳山いかにしてか臨済におよばん。


まことに臨済のごときは、群に群せざるなり。


そのときの群は、近代の抜群バックンよりも抜群なり。


行業ギョウゴウ純一にして行持抜群せりといふ。


幾枚幾般の行持なりとおもひ擬せんとするに、あたるべからざるものなり。



〔『抄』私訳〕

臨済院慧照大師の段、文の通りである。


「陳尊宿の教訓によりて、仏法の大意を黄檗にとふ」ときに、「三番する」と、一番につき二十回ずつ合計「六十棒」を与えたけれども、「励志たゆむことなし」。


「大愚にいたりて大悟することも、すなはち黄檗、睦州両尊宿の教訓なり」。「黄檗」と「臨済」の問答の文で詳細に書かれている。



〔『正法眼蔵』私訳〕                    

臨済院の慧照大師(臨済義玄)は、黄檗(希運禅師)の法を嗣いだ人である。

黄檗の門下にあって三年であった。純一に坐禅修行に精進していたとき、

兄弟子の睦州陳尊宿の教導によって、仏法の大意を黄檗に三度尋ねると、

その度に二十棒、あわせて六十棒をくらった。

(臨済院慧照大師は、黄檗の嫡嗣なり。黄檗の会にありて三年なり。

純一に辨道するに、睦州陳尊宿の教訓によりて、

仏法の大意を黄檗にとふこと三番するに、かさねて六十棒を喫す。)


それでもなお求道の志は弛ユルむことがなかった。

のちに大愚和尚(高安大愚)の所に至って大悟したことも、

黄檗と睦州の両高僧の教導によるものである。

(なほ励志たゆむことなし。大愚にいたりて大悟することも、

すなはち黄檗・睦州両尊宿の教訓なり。)


仏祖の道場で傑出した人は臨済義玄と徳山宣鑑であると言う。

しかしながら、徳山はどうして臨済に及ぼうか。

(祖席の英雄は臨済徳山といふ。

しかあれども、徳山いかにしてか臨済におよばん。)


まことに臨済のような人は、修行者の中でずば抜けているのである。

もっとも当時の修行者は、近頃のずば抜けている修行者よりずば抜けているのである。

(まことに臨済のごときは、群に群せざるなり。

そのときの群は、近代の抜群よりも抜群なり。)


臨済の修行は純一でその行持はずば抜けていたと言う。

どれほどの行持であろうかと思い、量ろうとしても、

思い当たることのないほどのものである。

(行業純一にして行持抜群せりといふ。

幾枚幾般の行持なりとおもひ擬せんとするに、あたるべからざるものなり。)


                 合掌


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