スキップしてメイン コンテンツに移動

法演:行は思を越えることはなく、思は行を越えることはない『第十六行持』16-13-2

 〔『正法眼蔵』原文〕

 翌日に上堂して、衆にしめしていはく、
    楊岐乍住屋壁疎、 楊岐乍ハジめて住す屋壁疎オロソかなり、    

  満床尽撒雪珍珠。 満床に尽く雪の珍珠を撒らす。        

  縮却頂、暗嗟嘘、 クビを縮却ツヅメて、暗に嗟嘘サキョす、     

  翻憶古人樹下居。  翻って憶ふ、古人樹下に居せしことを。   

つひにゆるさず。                      


 しかあれども、四海五湖の雲衲霞袂ウンノウカベイ、この会に掛錫カシャクするをねがふところとせり。耽道タンドウの人おほきことをよろこぶべし。この道ドウ、こゝろにそむべし。この語、みに銘ずべし。                


 演和尚、あるときしめしていはく、「行無越思ギョウムオッシ、思無越行シムオツギョウ《行ギョウは思を越ゆることなく、思は行を越ゆることなし》」。                          


この語おもくすべし。日夜思之ニチヤシシ、朝夕行之チョウセキギョウシ《日夜に之を思い、朝夕に之を行ふべし》。いたづらに東西南北の風にふかるゝがごとくなるべからず。


いはんやこの日本国は、王臣オウシンの宮殿なほその豊屋あらず、わづかにおろそかなる白屋ハクオクなり。出家学道の、いかでか豊屋に幽棲ユウセイするあらん。


もし豊屋をえたる、邪命ジャミョウにあらざるなし、清浄なるまれなり。もとよりあらんは論にあらず、はじめてさらに経営することなかれ。


草庵白屋は古聖コショウの所住なり、古聖の所愛なり。晩学したひ参学すべし、たがふることなかれ。黄帝コウテイ・堯ギョウ・舜シュン等は、俗なりといへども草屋に居す、世界の勝躅ショウチョクなり。 




〔『正法眼蔵』私訳〕

翌日法堂に上って、僧たちに示して言った、

(翌日に上堂して、衆にしめしていはく、)
  

楊岐山にはじめて住持したとき屋根も壁も粗末であり、

床一面に雪の粒が舞い散っていた。

(楊岐乍めて住す屋壁疎かなり、満牀に尽く雪の珍珠を撒らす。)                  


首を縮めて、そっとため息をついた。

翻って想う、昔の人が大木の下で修行されたことを。

(項を縮却て、暗に嗟嘘す、翻って憶ふ、古人樹下に居せしことを。)


ついに修理を許さなかった。

(つひにゆるさず。)                     


しかしながら、天下の多くの雲水たちは、

この寺に錫杖をかけ安居することを願いとした。

(しかあれども、四海五湖の雲衲霞袂、この会に掛錫するをねがふところとせり。)           


深く仏道修行を志す人が多いことを喜ぶべきである。法演禅師の仏道を心に深くとどめ、この言葉を身に刻みつけなければいけない。

(耽道の人おほきことをよろこぶべし。この道こころにそむべし。この語みに銘ずべし。)                                               


法演和尚は、ある時示して言った、

「行は思を越えることはなく、思は行を越えることはない」。

(演和尚、あるときしめしていはく、

「行は思を越ゆることなく、思は行を越ゆることなし」)。

                                  

この言葉を、重んじなければならない。日夜にこれを思い、朝夕にこれを行なわなければならない。むなしく東西南北の風に吹かれるようなことがあってはならない。

この語、おもくすべし。日夜に之を思い、朝夕に之を行ふべし。

いたづらに東西南北の風にふかるるがごとくなるべからず。)                                  


ましてこの日本国では、国王・大臣の宮殿でさえその建物は立派ではなく、小さくて粗末な家である。

(いはんやこの日本国は、王臣の宮殿なほその豊屋あらず、わづかにおろそかなる白屋なり。)


出家し仏道修行する者の、どうして立派な建物に住む者などあろうか。

もし立派な建物を得ているならば、仏道修行に相応しくない収入によらないものはなく、清浄な収入によるものは希である。もとからあったなら問題でないが、新たに建てようとしてはならない。

(出家学道の、いかでか豊屋に幽棲するあらん。もし豊屋をえたる、邪命にあらざるなし、

清浄なるまれなり。もとよりあらんは論にあらず、はじめてさらに経営することなかれ。)         


草葺きの粗末な家はいにしえの聖人が住まれたところであり、

いにしえの聖人が好まれたところである。後進の修行者はこれを慕い学ばなければならない、これに背いてはならない。

(草庵白屋は古聖の所住なり、古聖の所愛なり。

晩学したひ参学すべし、たがゆることなかれ。)           


昔の黄帝や堯や舜などは、俗人ながらも草葺の家に住んだが、

世界の優れた証跡である

(黄帝、堯、舜等は、俗なりといへども草屋に居す、世界の勝躅なり。) 


           合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

坐禅は身心の今の様子のままにただ親しくいるだけである『第十一坐禅儀』11-1-1a

正法眼蔵第十一 坐禅儀 ザゼンギ 〔『正法眼蔵』原文〕   参禅は坐禅なり 。  坐禅は静処 ジョウショ よろし。坐蓐 ザニク あつくしくべし。 風烟 フウエン をいらしむる事なかれ、雨露 ウロ をもらしむることなかれ、 容身 ヨウシン の地を護持すべし。 かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。 坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。 冬暖夏涼 トウダンカリョウ をその術とせり。  諸縁を放捨し、万事 バンジ を休息すべし。 善也不思量 ゼンヤフシリョウ なり、悪也不思量なり。 心意識にあらず、念想観にあらず。 作仏 サブツ を図 ズ する事なかれ 、坐臥 ザガ を脱落すべし。  飲食 オンジキ を節量すべし、光陰を護惜 ゴシャク すべし。 頭燃 ズネン をはらふがごとく坐禅をこのむべし。 黄梅山 オウバイサン の五祖、ことなるいとなみなし、唯務 ユイム 坐禅のみなり。  坐禅のとき、袈裟 ケサ をかくべし、蒲団 フトン をしくべし。 蒲団は全跏 ゼンカ にしくにはあらず、跏趺 カフ のなかばよりはうしろにしくなり。 しかあれば、累足 ルイソク のしたは坐蓐 ザニク にあたれり、 脊骨 セキコツ のしたは蒲団にてあるなり。 これ仏々祖々の坐禅のとき坐する法なり 。 〔『正法眼蔵』私訳〕 正しい坐禅の仕方 (坐禅儀)   禅 (自己の真相:今の様子) に参ずる (親密にいる) のは、 公案を拈ることではなく 坐禅することである 。 (参禅は坐禅なり。)  坐禅は静かな処が適切である。 (坐禅は静処 ジョウショ よろし。) 座布団を厚く敷きなさい。 (坐蓐 ザニク あつくしくべし。) 風や霞が入らないようにし、雨や露が漏れてこないようにして、 身を容 イ れる場所を清潔に保ちなさい。 (風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、 容身の地を護持すべし。) かつて金剛座 (金剛石でできた坐処) の上に坐したり、 或いは大きい岩の上に坐した事跡があるが、 彼らはみな草を厚く敷いて坐ったのである。 (かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしき...