〔『抄』私訳〕 「五祖山法演禅師」の段、文の通りである。 「五祖」は山名であり、五祖・六祖のことではない。
「我仏有言、時当減劫、高岸深谷、遷変不常。安得円満如意、自求称足
《我仏、言へること有り、時、減劫に当たって、高岸深谷、遷変して常ならず。
安くんぞ円満如意にして、自ら称足なるを求むることを得ん》ならん。」云々。
「古往の聖人、おほく樹下露地に経行す。」それなのに、末代の人が「豊屋」に住むことを普通のこととし、仏道を行ずることが疎かであることを戒められるのである。
「演和尚、あるときしめしていはく、「行無越思、思無越行」」云々。
これは、「行」の言葉を「行持」の巻であるから、引き出されるのである。「行」と「思」に差別がない道理を述べられるのである。一般には、「行」は身の上の所作で、「思」は心意識の上でこれを言う。この邪念を破るためである。「行」と「思」は一体であることを忘却してはならない。
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。
↓ ↓

コメント
コメントを投稿