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大梅「流れに随って行きなさい」『第十六行持』16-12-2

〔『正法眼蔵』原文〕

 かくのごとくして年月を経歴キョウリャクするに、塩官エンカンの会より一僧きたりてやまにいりて拄杖シュジョウをもとむるちなみに、

迷山路メイサンロしてはからざるに、師の庵所アンショにいたる。


不期フゴのなかに師をみる、すなはちとふ、

「和尚、この山に住してよりこのかた、多少時也タショウジヤ」。


 師いはく、「只見四山青又黄シケン シザン セイユウコウ

       《只四山の青又黃なるを見るのみ》」。

 この僧またとふ、「出山路シュッサンロ、向什麽処去コウ シモショコ

          《出山の路、什麽イズレの処に向ひて去かん》」。

 師いはく、「随流去ズイリュウコ《流れに随ひて去くべし》」。                


 この僧あやしむこゝろあり。


かへりて塩官に挙似コジするに、塩官いはく、

「そのかみ江西コウゼイにありしとき、一僧を曾見ゾウケンす、

それよりのち消息をしらず。

莫是此僧否マクゼシソウヒ《是れ此の僧に莫アラずや否や》」。


つひに僧に命じて師を請ショウするに出山シュッサンせず。


ゲをつくりて答トウするにいはく、

  摧残枯木倚寒林、《摧残サイザンの枯木寒林に倚る、》
  幾度逢春不変心。《幾度イクタビか春に逢うて心を変ぜず。》
  樵客遇之猶不顧、《樵客ショウカクコレに遇うて猶ナオカヘリみず、》
  郢人那得苦追尋。《郢人エイジンナンぞ苦ネンゴロに追尋ツイジンすることを得ん。》                      


つひにおもむかず。



〔『正法眼蔵』私訳〕

このようにして年月が経過していたところ、塩官(斉安国師)の会下から一人の僧が来て、山に入って行脚の杖にする木を探していた際に、

山道に迷って、たまたま師の庵のある所に出た。

思いがけず師に出会い、尋ねた、

「和尚さまはこの山に住まれてから、どれくらいの時になりますか」。

(かくのごとくして年月を経歴するに、塩官の会より一僧きたりて、

やまにいりて拄杖をもとむるちなみに、迷山路して、はからざるに師の庵所にいたる。

不期のなかに師をみる。すなはちとふ、「和尚この山に住してよりこのかた、多少時也」。)

師は言った、

「ただまわりの山々が青くなったり黄色くなったりするのを見ただけだ」。

(師いはく、「只見四山青又黄」。)

この僧はまた尋ねた、

「山を出る道は、どちらへ向かって行けばいいでしょうか」。

(この僧またとふ、「出山路、向什麽処去」。)

師は言った、「流れに随って行きなさい」。

(師いはく、「随流去」。)            


この僧は不審に思うところがあり、

帰って塩官に事の次第を話すと、塩官は言った、

「その昔、私が江西(馬祖)の会下にいたとき、

ある僧に会ったことがある。それから後の消息を知らない。

もしかするとそれはこの僧ではなかろうか」。

(この僧あやしむこころあり。かへりて塩官に挙似するに、塩官いはく、

「そのかみ江西にありしとき、一僧を曾見す、それよりのち消息をしらず。莫是此僧否」。)

そこで、その僧を遣わして師を招いたが、

山を出ず、詩偈を作って答えて言った、

(つひに僧に命じて師を請するに、出山せず。偈をつくりて答するにいはく、)

  切り残された枯れ木が冬の林に立っている、

  (摧残せる枯木寒林に倚る、)

  何度春に逢っても心を変えることはない。

  (幾度か春に逢うて心を変ぜず。)

  木こりさえこの木(私)に遇っても顧みないのに、

  (樵客之に遇うて猶顧みず。)

  大工(塩官)がどうして熱心に追い求めることが出来ようか。

  (郢人那ぞ苦に追尋することを得ん。)

遂にその招きに応じなかった。

(つひにおもむかず。)  




            合掌


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