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大梅法常禅師:松の実を食べ、蓮の葉を衣とした『第十六行持』16-12-1

〔『正法眼蔵』原文〕                     

大梅山ダイバイザンは慶元府ケイゲンフ(浙江省)にあり、

この山に護聖寺ゴショウジを草創ソウソウす、

法常ホウジョウ禅師その本元ホンゲンなり。

禅師は襄陽人ジョウヨウニンなり。


かつて馬祖の会に参じてとふ、「如何是仏ニョガ ゼブツ」と。 

                                

馬祖いはく、「即心是仏ソクシン ゼブツ」と。                       


法常このことばをきゝて、言下大悟ゴンカ ダイゴす。


ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて人倫ジンリンに不群なり、

草庵に独居す。


松実ショウジツを食ジキし、荷葉カヨウを衣とす。


かの山に少池ショウチあり、池に荷おほし。


坐禅辨道すること三十余年なり。


人事ニンジたえて見聞ケンモンせず、年暦ネンレキおほよそおぼえず、

四山青又黄シザン セイユウコウのみをみる。


おもひやるには、あはれむべき風霜フウソウなり。                                      


師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上におく。


如載宝冠ニョタイ ホウカンなり。


この塔を落地却ラクチキャクせしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。


その塔いま本山にあり、庫下クカに交割コウカツす。


かくのごとく辨道すること、死にいたりて懈惓ケゲンなし。  



〔『正法眼蔵』私訳〕                         

大梅山は慶元府にあり、この山に護聖寺を創建し、

大梅法常禅師はその開山である。

禅師は襄陽の人である。

大梅山は慶元府にあり、この山に護聖寺を草創す、法常禅師その本元なり。

禅師は襄陽人なり。)                       


かつて馬祖の会下に参じて問うた、

「仏とはどのようなものですか」と。

(かつて馬祖の会に参じてとふ、「如何是仏」と。)                                


馬祖は言った、「この心がそのまま仏である」と。

(馬祖いはく、「即心是仏」と。)      


法常はこの言葉を聞いて、言下に大悟した。

(法常このことばをききて、言下大悟す。)     


そこで、大梅山の頂上に登って、人と交わらず、草庵で独居した。

(ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて、人倫に不群なり、草庵に独居す。)


松の実を食べ、蓮の葉を衣とした。

(松実を食し、荷葉を衣とす。)


その山には小さな池があり、池には蓮が多かった。

(かの山に小池あり、池に荷おほし。)    


坐禅修行に精進すること三十数年であった。

(坐禅辨道すること三十余年なり。)


世間のことは一切見聞きせず、年月もまったく覚えず、

四方の山々が青くなったり黄色くなるのを見ただけであった。

(人事たえて見聞せず、年暦おほよそおぼえず、四山青又黄のみをみる。)


はるかに想うに、感嘆にたえない年月である。

(おもひやるは、あはれむべき風霜なり。)                      


師が坐禅する時は、八寸の鉄塔一基を頭の上に置いた。

宝冠をいただくようにである。

(師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上におく。如載宝冠なり。)


この塔を落とさないように努力したので、眠らなかったのである。

(この塔を落地却せしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。)          


その塔は、今も護聖寺にあり、倉庫に納められている。

(その塔、いま本山にあり、庫下に交割す。)


このように坐禅に精進することを、死に至るまで怠らなかった。

(かくのごとく辨道すること、死にいたりて懈惓なし。) 



              合掌


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