〔抄私訳〕
「師いはく、『牆壁瓦礫』。いはゆる宗旨は、牆壁瓦礫にむかひて道取する一進あり、牆壁瓦礫なり。道出する一途イチヅあり、牆壁瓦礫の牆壁瓦礫の許裏コリに道著する一退あり」とある。
前には、「如何是古仏心」の言葉を釈され、今は、国師の答えの「牆壁瓦礫」の言葉を釈されるのである。
僧の問いの言葉、師の答えの言葉、あれとこれとがあるように思われるが、つまるところ、今の御釈は、この道理は「牆壁瓦礫」が「牆壁瓦礫」と問答したということである。
問う僧も答える師も、けっして「牆壁瓦礫」のほかのものでないからである。
「進」も「退」も「出」も「入」も、みな「牆壁瓦礫」の上の「進」「退」「出」「入」なのである。
「これらの道取の現成するところの円成十成に、千仭万仭センジンバンジンの壁立ヘキリュウせり、迊地迊天ソウチソウテンの牆立ショウリュウあり、一片半片の瓦蓋ガガイあり、乃大乃小ナイダイナイショウの礫尖リャクセンあり」とある。
「円成十成」とは、欠けた所がない言葉であり、充足しているのである。
「これらの道取」とは、上の「師いはく、『牆壁瓦礫』」以下の言葉を指すのである。「牆壁瓦礫」の四字を一字ずつ釈されるのである。
「壁」も「千仭万仭」、「牆」も「地天」、「瓦」も「一片半片」、「礫」も「乃大乃小」というのである。それぞれの字は、みな他のものに関係なく、それぞれ独立している道理である。
本の言葉は「牆壁瓦礫」とあるので、まず「牆」の言葉が出てくるべきであるが、この道理の上では前後の差別の義はないのである。
誤って「壁」の字を先ず釈されるのは何か差し支えがあるのかとも、気をつけて考えるべきである、能所彼此ノウジョヒシ(主客自他)の前後を際断するからである。これらの道理を「円成十成」とも言うのである。
「迊地迊天」は広く、「一片半片」は狭いと思ってはならない、「円成十成」の理であるからである。
「かくのごとくあるは、たゞ心のみにあらず、すなはちこれ身なり、乃至依正エショウなるべし。しかあれば、作麼生是牆壁瓦礫と問取すべし、道取すべし。答話せんには、古仏心と答取すべし」とある。
これは、「古仏心」という「心」の語だけではなく、この「心」という語に替えて、「身」とも「依正」とも言うことができるというのである。つまるところ、「古仏身」「古仏眼」「古仏依正」「古仏鼻孔」とも、さまざまに言うことができる道理をこのように釈されるのである。
本の語では、「如何是古仏心」と問うと、「牆壁瓦礫」と答えられる。それをこの道理の上は、「作麼生是牆壁瓦礫と問取すべし」というのである。これをまた、「答話せんには、古仏心と答取すべし」というのである。本の言葉を打ち替えて問答する、即ちこの道理に違わないのである。
「かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段ギョウダンをか具足せると、審細に参究すべし。」とある。
日頃は「牆壁瓦礫」と言えば、垣・壁、或いは、泥・藁・水などによって、造った物と思っているのに、「牆壁瓦礫はいかなるべきぞ」と、こと新しく「審細に参究すべし」と言う。
先ず、日頃の旧見の「牆壁」などではない道理が明らかである。つまるところ、今は三世の諸仏や西天東地の祖師を「牆壁瓦礫」と呼んでいるのである。
「造作ゾウサより牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。造作か、造作にあらざるか。有情なりとやせん、無情なりや。現前すや、不現前なりや。」とある。
「造作より牆壁を出現せしむる」ことは普通のことであるが、「牆壁より造作を出現せしむるか」とあるのは、よく理解できない。ただ、今の「牆壁瓦礫」の道理は、いかにもこのように言われるのである。
「あらざるか、あらざるか」とあり、例のみなこの道理があるために、「か」「か」と受けられるのである。これは「即不中」(即ちあたらず)の義である。
「かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、さらに一塵の出頭して染汚ゼンナする、いまだあらざるなり。」とある。
「天上人間にもあれ、此土他界の出現なりとも」というのは、みな「古仏心」は「牆壁瓦礫」であるというのである。「古仏心」が「牆壁瓦礫」ではない「天上人間」も「此土他界」もないのである。この道理の上では、「一塵」たりとも「出頭して」「古仏心」「牆壁瓦礫」を「染汚する」ものはないのである。
〔聞書私訳〕
/「作麼生是牆壁瓦礫」とは、「仏」に種々の「仏」があり、「心」に種々の「心」があり、「牆壁瓦礫」に種々のすがたがあるというのである。或いは「一進」、或いは「一退」、或いは「一片」、或いは「半片」とも言うのである。「古仏心」と「牆壁瓦礫」は一つであるからである。
/今、「古仏心」とあるが、我々が思うような新古のことと決して心得てはならない。仏が成道する時は、必ず久遠実成の仏であることを顕される。このお言葉によって執着している心を揺り動かすのである。
新たに成った仏は、ちょうど今、五百塵点刧の大昔に成仏したと言われるのである。だから、悟りに差別がないのは、「仏」も「国」も、「新」も「古」もその違いはないのである。
事(森羅万象)と理(真如)の二つを立てることに「古」と「今」と定めるのは、迷妄の方である。ただ、事理はともに仏法と言えば、事理にその違いはなく、理の方に古今の区別はないのである。
/「古心」も「古仏」であり、別ではない。「這頭」も「那頭」も、「古仏」である。今の「古心」は「古仏」である。我が身は「古仏」であると心得るべきであり、また、尽きることのない我が身なのである。
合掌
コメント
コメントを投稿