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如来の正法を聞くことができる道にどうしてこの身を惜しむことがあろうか『第十六行持下』16下-5-2

 〔『正法眼蔵』原文〕

漢高祖および魏太祖、これら天象テンショウの偈をあきらめ、

地形チギョウの言ゴンをつたへし帝者テイジャなり。


かくのごときの経典あきらむるとき、

いさゝか三才あきらめきたるなり。


いまだかくのごとくの聖君の化ケにあはざる百姓ヒャクセイのともがらは、

いかなるを事君ジクンとならひ、いかなるを事親ジシンとならふとしらざれば、

君子としてもあはれむべきものなり。


親族としてもあはれむべきなり。


臣となれるも子となれるも、尺璧セキヘキもいたづらにすぎぬ、

寸陰もいたづらにすぎぬるなり。


かくのごとくなる家門にむまれて、

国土のおもき職なほさずくる人なし、かろき官位なほをしむ。


にごれるときなほしかあり、すめらんときは見聞もまれならん。


かくのごときの辺地、かくのごときの卑賤の身命シンミョウをもちながら、

あくまで、如来の正法をきかんみちに、いかでかこの卑賤の身命を

をしむこゝろあらん。


をしんでのちになにもののためにかすてんとする。



〔『正法眼蔵』私訳〕

漢の高祖(劉邦)や魏の太祖(曹操)などは、天文の説く詩偈を明らかにし、

土地の様子の説く言葉を伝えた帝王である。

(漢高祖および魏太祖、これら天象の偈をあきらめ、地形の言をつたへし帝者なり。)


このような経典を明らめるとき、

いささか天・地・人のはたらきを明らめることができたのである。

(かくのごときの経典あきらむるとき、いささか三才あきらめきたるなり。)


まだこのような優れた君主の徳化に会わない多くの民は、

どうすることが君主に仕えることで、どうすることが親に仕えることかを

知らないので、君主としても哀れであり、親族としても哀れである。

(いまだ、かくのごとくの聖君の化にあわざる百姓のともがらは、いかなるを事君とならひ、

いかなるを事親とならふとしらざれば、君子としてもあはれむべきものなり。

親族としてもあはれむべきなり。)


これでは臣下となっても子となっても、貴重な一尺の金剛石も無用なものとし、大切なほんのわずかな時間も無駄に過ごしてしまうのである。

(臣となれるも子となれるも、尺璧もいたずらにすぎぬ、寸陰もいたずらにすぎぬるなり。)


このような家柄に生まれ育った人に、国の重職を授ける人はいないし、

軽い官位でさえ惜しむであろう。

(かくのごとくなる家門にむまれて、国土のおもき職なほさずくる人なし、

かろき官位なほおしむ。)


世が乱れた時もやはりそうであり、世が治まった時はこのような人に官位を授けることを見聞することは滅多にないであろう。

(にごれるときなほしかあり、すめらんときは見聞もまれならん。)


このような辺地の日本でこのような卑しい身でありながら、存分に如来の正法を聞くことができる道にどうしてこの卑しい身を惜しむことがあろうか。

(かくのごときの辺地、かくのごときの卑賤の身命をもちながら、あくまで如来の正法をきかんみちに、いかでかこの卑賤の身命をおしむこころあらん。)


惜しんだ後に、この身を何のために捨てるというのか。

(おしんでのちに、なにもののためにかすてんとする。)



           合掌


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