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達磨大師は嵩山に行き少林寺に逗留した『第十六行持下』16下-4-2

〔『正法眼蔵』原文〕

しかあればすなはち、梁リョウより魏へゆくことあきらけし。


嵩山スウザンに経行キンヒンして少林に倚杖イジョウす。


面壁燕坐メンペキエンザすといへども、習禅にはあらざるなり。


一巻の経書キョウショを将来せざれども、正法伝来の正主ショウシュなり。


しかあるを、史者あきらめず、

習禅の篇につらぬるは、至愚なり、かなしむべし。                            

かくのごとくして嵩山に経行するに、犬あり、堯ギョウをほゆ。


あはれむべし、至愚なり。


だれのこゝろあらんか、この慈恩をかろくせん。


たれのこゝろあらんか、この恩を報ぜざらん。


世恩なほわすれず、おもくする人おほし、これを人といふ。


祖師の大恩は父母ブモにもすぐるべし、

祖師の慈愛は、親子シンシにもたくらべざれ。



〔『正法眼蔵』私訳〕

このようであったので、大師が梁から魏へ行ったことは明らかである。

しかあればすなはち、梁より魏へゆくことあきらけし。)


嵩山に行き少林寺に逗留した。

(嵩山に経行して少林に倚杖す。)


壁に向って坐禅をしたが、それは禅定の修練ではないのである。

(面壁燕坐すといへども、習禅にはあらざるなり。)


大師は一巻の経書ももたらさなかったが、

正法を伝来した正統な教主である。

(一巻の経書を将来せざれども、正法伝来の正主なり。) 


しかし、歴史家はそのことを理解せず、禅定を修練する者の部類に入れたのは、まことに愚かで、悲しむべきことである。

(しかあるを、史者あきらめず、習禅の篇につらぬるは、至愚なり。かなしむべし。)                               


このようにして嵩山に行ったが、盗人の犬が聖天子の堯を吠えたように、

大師を誹謗する者がいた。

(かくのごとくして嵩山に経行するに、犬あり、堯をほゆ。)

〔犬は、達磨大師に迫害を加えた菩提流支三蔵や光統律師などを指す。〕


哀れむべき者であり、まことに愚かなことである。

(あわれむべし、至愚なり。)


心ある人ならば、誰が慈悲深いこの師の恩を軽んじるであろうか。

(だれのこゝろあらんか、この慈恩をかろくせん。)                              


心ある人ならば、誰がこの師の恩に報いないでおられようか。

(だれのこゝろあらんか、この恩を報ぜざらん。)


世間的な恩義であっても忘れることなく、大切にする人は多い、

これを人と言うのである。

(世恩なほわすれず、おもくする人おほし、これを人といふ。)


祖師の大恩は父母の恩よりも優れており、

祖師の慈愛は親子の愛にも比べられないものである。

(祖師の大恩は父母にもすぐるべし。祖師の慈愛は親子にもたくらべざれ。)



             合掌


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