スキップしてメイン コンテンツに移動

達磨大師は、南インドの王族階級であり 大国の皇子である『第十六行持下』16下-3-1

〔『正法眼蔵』原文〕                        

師は南天竺の刹利種セツリシュなり、大国の皇子オウジなり。


大国の王宮オウグウ、その法ひさしく慣熟せり。


小国の風俗は、大国の帝者に為見イケンのはぢつべきあれども、

初祖、うごかしむるこゝろあらず。


くにをすてず、人をすてず。


ときに菩提流支ボダイルシ訕謗センボウを救キュウせず、にくまず。


光統律師コウズリッシが邪心をうらむるにたらず、きくにおよばず。


かくのごとくの功徳おほしといへども、東地の人物、たゞ尋常の三蔵

および経論師のごとくにおもふは至愚なり。小人なるゆゑなり。


あるひはおもふ、「禅宗とて一途イチズの法門を開演するが、

自余の論師等の所云ショウンも、初祖の正法もおなじかるべき」とおもふ。


これは仏法を濫穢ランエせしむる小畜なり。             


                       

〔「抄」私訳〕 

「菩提流支」と「光統律師」はともに教者である。 


初祖を嫉ソネみ憎んだ人である。 




〔『正法眼蔵』私訳〕                         

達磨大師は、南インドの王族階級(クシャトリア)であり、

大国の皇子である。

(師は南天竺の刹利種なり、大国の皇子なり。)


大国の王宮では、その法が久しく習熟していた。

(大国の王宮、その法ひさしく慣熟せり。)


小国の風俗は、大国の帝王にお目にかかる儀礼が整っておらず

恥ずべきところもあったが、大師は心を動かさなかった。

(小国の風俗は、大国の帝者に為見のはぢつべきあれども、

初祖うごかしむるこゝろあらず。)


この国を捨てず、この国の人を捨てなかった。

(くにをすてず、人をすてず。)


時に菩提流支(北インドから洛陽に来た三蔵学者)の誹謗を受けても、

相手にせず憎まなかった。

(ときに菩提流支の謗を救せず、にくまず。)


また光統律師(魏の僧)の邪心(大師を嫉妬して毒殺を図った)

恨むことなく、問題にもしなかった。

(光統律師が邪心をうらむるにたらず、きくにおよばず。)


このように功徳が多かったが、中国の人たちが、

大師をもっぱら普通の三蔵法師や経典・論典の講師のように思ったのは、

実に愚かなことであった。小人であったからである。

(かくのごとくの功徳おほしといへども、東地の人物、

ただ尋常の三蔵および経論師のごとくにおもふは、至愚なり。小人なるゆゑなり。)


あるいは、「禅宗と言う一つの教えを説いているが、

そのほかの経論の師たちが言う所も、初祖の正法も同じであろう」と思う。

(あるひはおもふ、「禅宗とて一途の法門を開演するが、自余の論師等の所云も、

初祖の正法もおなじかるべき」とおもふ。)


これは仏法をみだりに汚す愚か者の考えである。

(これは仏法を濫穢せしむる小畜なり。)



              合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村 

コメント

このブログの人気の投稿

尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国湖南長沙 チョウシャ 招賢大師、上堂示衆云 ジシュウニイワク    尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》    尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》    尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》    尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》    尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》    尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》  仏道の参学、かならず勤学 ゴンガク にすべし。 転疎転遠 テンソテンノン なるべからず。 これによりて光明を学得せる作家 ソカ 、まれなるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、 (大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云) 尽十方界 (全世界) は、沙門 (修行僧) の眼 (私がなく見えるままの眼) である。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界は、沙門の日常の語である。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界は、沙門の全身である。 (尽十方界、是れ沙門の全身) 尽十方界は、自己の光明である。 (尽十方界、是れ自己の光明) 尽十方界は、自己の光明の中にある。 (尽十方界、自己の光明裏に在り) 尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。 (尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し) 仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。 (仏道の参学、かならず勤学にすべし。) 光明と疎遠であってはならない。 (転疎転遠なるべからず。) 光明と疎遠であって光明を自己のものにできた 作家 (仏道に弟子を導くことができる優れた師家) は、希なものである。 (これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。) 尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

人間の目の素晴らしい働き 番外編

  皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。 動画: 正法眼蔵(人間の目の素晴らしい働き) 尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうご ざいます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。  まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。 目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。 自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。 私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。 写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村