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達磨大師と武帝の問答『第十六行持下』16下-2-1

〔『正法眼蔵』原文〕                     

初祖金陵キンリョウにいたりて梁武リョウブと相見ショウケンするに、       

梁武とふ、「朕即位已来、造寺・写経・度僧、不可勝紀、有何功徳       《朕ワレ即位よりこのかた、造寺・写経・度僧、げて紀すべからず、何の功徳か有る》」。                           


師曰イワク、「並無功徳《並びに功徳無し》」。           


帝曰、「何以無功徳《何の以ユエにか功徳無き》」。        


師曰、「此但人天小果、有漏之因。如影随形、雖有非実

    《此れは但タダ人天の小果、有漏ウロの因なり。

    影の形に随ふが如し、有りと雖も実に非ず》」。                      


帝曰、「如何是真功徳《如何なるか是れ真の功徳》」。      


師曰、「浄智妙円、体自空寂。如是功徳、不以世求

    《浄智妙円にして、体自オノズカら空寂なり。

    是カクの如くの功徳は、世を以て求めず》」。   


帝又問トウ、「如何是聖諦第一義諦

      《如何ならんか是れ聖諦ショウタイ第一義諦》」。       


師曰、「廓然無聖カクネンムショウ」。                 


帝曰、「対朕者誰《朕に対する者は誰そ》」。          


師曰、「不識」。               



〔『正法眼蔵』私訳〕                          

達磨大師は、金陵(南京)に到着して梁の武帝に会うと、

(初祖金陵にいたりて梁武と相見するに、) 


梁の武帝は尋ねた、「朕は即位以来、寺を建て、経を写し、

僧を度する(僧尼の許可を与える)ことなど一々数え上げることができないほど多くのことをしてきたが、どんな功徳があるか」。

(梁武とふ、「朕、即位より已来、寺を造り、経を写し、

 僧を度すること、勝げて紀すべからず、何の功徳か有る」。)

                                                  

師は言った、「どれも功徳は無い」。

(師曰く、「並びに功徳無し」。)                 


帝は言った、「なぜ功徳は無いのか」。

(帝曰く、「何の以にか功徳無き」。)    


師は言った、「これはただ人間界や天上界の小さな果報で、煩悩が起こる元である。影が形に従うように、有っても実在するものではない」。

(師曰く、「此れは但人天の小果、有漏の因なり。

影の形に随ふが如し、有りと雖も実に非ず」。)                                   


武帝は言った、「真の功徳とはどのようなものか」。

(帝曰く、「如何なるか是れ真の功徳」)    


師は言った、「清浄な智慧がまどかであり、人間的な計らいなど入る余地のないものである。このような功徳は、人間的な計らいで得られるものではない」。

(師曰く、「浄智妙円にして、体自ら空寂なり。

 是の如くの功徳は、世を以て求めず」。)           


武帝はまた尋ねた、「聖なる第一の真理とは何か」。

(帝又問う、「如何ならんか是れ聖諦第一義諦」。)


  師は言った、「からりと開けており、

凡聖の区別はなく一切は正法眼蔵涅槃妙心である(一切衆生悉有仏性)」。

(師曰く、「廓然無聖」。)     


武帝は言った、「朕に対している者は誰か」。

(帝曰く、「朕に対する者は誰そ」。)         


師はまた言った、「知らぬ」。

(又曰く、「不識」。)

〔非・不は脱落を言う。底意は「意識のはたらき(識)を脱落せよ」である。凡と聖や自と他など二項が相い対する意識のはたらきを脱落すれば、相い対するものはなく、一切は廓然無聖(一切衆生、悉有は仏性)だ。〕


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