〔『正法眼蔵』原文〕
このゆゑにかくのごとく西来せり。
救迷情の自己なるがゆゑに驚疑キョウギなく、怖畏フイせず。
救迷情の遍界なるゆゑに驚疑せず、怖畏なし。
ながく父王の国土を辞して、大舟をよそほうて、南海をへて広州にとづく。
使船の人おほく、巾瓶キンビョウの僧あまたありといへども、史者失録せり。
著岸ヂャクガンよりこのかた、しれる人なし。
すなはち梁代リョウダイの普通八年丁未ヒノトヒツジ歳九月二十一日なり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
このためにこのように、達磨大師はインドから中国に来たのである。
(このゆゑにかくのごとく西来せり。)
法を伝え衆生を救う自己であるから、驚き疑うことなく怖れず、法を伝え衆生を救う遍法界であるから、驚き疑わず怖れることはないのである。
(救迷情の自己なるゆゑに、驚疑なく怖畏せず。救迷情の遍界なるゆゑに、驚疑せず怖畏なし。)
長く父王の国土をおいとまして、大船を整えて、南の海を経て広州に到着した。
(ながく父王の国土を辞して、大舟をよそほふて、南海をへて広州にとづく。)
同船の人は多く、身近に仕える僧も多数いたが、歴史家は記録しなかった。
(使船の人おほく、巾瓶の僧あまたありといへども、史者失録せり。)
岸に着いてからのちは、大師がいかなる方かを知る人はいなかった。
(著岸よりこのかた、しれる人なし。)
それは梁の時代の普通八年(527年)ひのとひつじの年、九月二十一日のことであった。
(すなはち梁代の普通八年丁未歳九月二十一日なり。)
広州の長官蕭昂ショウコウという者が、儀杖兵を遣わしてお迎えした。
(広州の刺史粛昴といふもの、主礼をかざりて迎接したてまつる。)
また上表文を書いて武帝に申し上げたのは、
蕭昂が忠実に勤めを果たしたからである。
(ちなみに表を修して武帝にきこゆる、粛昂が勤恪なり。)
武帝は上表文を見て大層喜び、使者に詔書を持たせてお迎えした。
(武帝すなはち奏を覧して欣悦して、使に詔をもたせて迎請したてまつる。)
それはその年の十月一日のことであった。
(すなはちそのとし十月一日なり。)
合掌
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