〔『正法眼蔵』原文〕
穆宗は長慶四年晏駕アンガあり。
穆宗に三子あり、一は敬宗ケイソウ、二は文宗ブンソウ、三は武宗ブソウなり。
敬宗父位をつぎて三年に崩ず。
文宗継位ケイイするに一年といふに、内臣謀而ダイシン ボウニ、これを易エキす。
武宗即位するに、宣宗いまだ即位せずして、をひのくににあり。
武宗つねに宣宗をよぶに癡叔チシュクといふ。
武宗は会昌カイショウの天子なり、仏法を廃せし人なり。
武宗あるとき宣宗をめして、昔日セキジツちゝのくらゐにのぼりしことを罰して、一頓打殺イットンタセツして、後華園コウカエンのなかにおきて、不浄フジョウを灌カンするに復生フクセイす。
つひに父王の邦クニをはなれて、ひそかに香厳キョウゲンの閑禅師の会エに参じて、
剃頭テイヅして沙弥シャミとなりぬ。
しかあれども、いまだ不具戒フグカイなり。
智閑禅師をともとして遊方ユホウするに、廬山ロザンにいたる。
ちなみに智閑みづから瀑布バクフを題していはく、
穿崖透石不辞労、 《崖ガケを穿ウガち石を透トオして労を辞せず、》
遠地方知出処高。 《遠地エンチ方マサに知りぬ出処の高きことを。》
この両句をもて、沙弥を釣他チョウタして、これいかなる人ぞとみんとするなり。
沙弥これを続していはく、
渓澗豈能留得住、 《渓澗ケイカン豈アニ能ヨく留トドめ得て住トドめんや、
終帰大海作波濤。 終ツイに大海に帰キして波濤ハトウをなす》
この両句をみて、沙弥はこれつねの人にあらずとしりぬ。
〔『正法眼蔵』私訳〕
穆宗は長慶四年(824年)に崩御した。
穆宗に三人の子があり、長男は敬宗、次男は文宗、三男は武宗である。
(穆宗は長慶四年晏駕あり。穆宗に三子あり、一は敬宗、二は文宗、三は武宗なり。)
敬宗は父の位を継いで三年で崩じた。文宗がその位を継いでまだ一年というのに、近臣が謀って退位させた。
(敬宗父位をつぎて三年に崩ず。文宗継位するに一年といふに、内臣謀而、これを易す。)
武宗が即位したが、宣宗はまだ即位せず、甥の武宗の国に居た。武宗は常に宣宗を「ばか叔父」と呼んだ。武宗は会昌年間(841〜846)の天子で、仏法を廃した人である。
(武宗即位するに、宣宗いまだ即位せずして、をひのくににあり。武宗つねに宣宗をよぶに癡叔といふ。武宗は会昌の天子なり、仏法を廃せし人なり。)
武宗はあるとき 宣宗を呼んで、昔父の玉座に上ったことを罰して、一棒のもとに打ち殺し、便所の中に置いて、小便をかけると生き返った。
(武宗あるとき宣宗をめして、昔日ちゝのくらゐにのぼりしことを罰して、
一頓打殺して、後華園のなかにおきて、不浄を灌するに復生す。)
ついに宣宗は父王の国を離れて、密かに香厳禅師の門下に参じて、頭を剃って沙弥(十戒を受けた見習い僧)となった。しかしながら、まだ具足戒(二百五十戒を受けて国家公認の僧侶となる)を受けなかった。
(つひに父王の邦をはなれて、ひそかに香厳の閑禅師の会に参じて、剃頭して沙弥となりぬ。しかあれども、いまだ不具戒なり。)
〔具足戒を届け出るとその居場所が武宗に知られる恐れがあるので、具足戒を受けなかったのであろう。〕
智閑禅師とともに行脚して廬山(江西省)に至った。そのとき、智閑は自ら滝を題として詠ウタった、「渓流は崖を穿ち石を砕いて労を惜しまない、遠くにあってその渓流が高い処から出ていることを知る」。
(智閑禅師をともとして遊方するに、廬山にいたる。ちなみに智閑みづから瀑布を題していはく、「崖を穿ち石を透して労を辞せず、遠地方に知りぬ出処の高きことを」。)
この二句で、沙弥を試して、どのような人物であるか見ようとしたのである。
(この両句をもて、沙弥を釣他して、これいかなる人ぞとみんとするなり。)
合掌
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