〔『正法眼蔵』原文〕
しづかにおもふべし、驪珠はもとめつべし、尺璧はうることもあらん。
一生百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、ふたゝびうることなからん。
いづれの善巧方便ゼンギョウ ホウベンありてか、すぎにし一日をふたたびかへしえたる。
紀事キジの書にしるさざるところなり。
もしいたづらにすごさざるは、日月を皮袋ヒタイに包含ホウガンして、もらさざるなり。
しかあるを、古聖先賢コショウ センケンは、日月ををしみ、光陰ををしむこと、
眼睛ガンゼイよりもをしむ。国土よりもをしむ。
そのいたづらに蹉過シャカするといふは、名利ミョウリの浮世フセイに濁乱ジョクランしゆくなり。
いたづらに蹉過せずといふは、道にありながら、道のためにするなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
静かに思うべきである、竜のあぎとにある明珠は求めることもできよう、
また直径一尺の金剛石は手に入れることもできよう。
(しづかにおもふべし、驪珠はもとめつべし、尺璧はうることもあらん。)
しかし、一生の百年のうちの一日は、
一度失ってしまえば、再び手に入れることはできないであろう。
(一生の百歳のうちの一日は、ひとたゝびうしなはん、ふたゝびうることなからん。)
どのような巧みな手立てがあって、
過ぎた一日を再び取り返すことができようか。
(いずれの善巧方便ありてか、すぎにし一日をふたゝびかえしえたる。)
歴史の書に記されていないところである。
(紀事の書にしるさざるところなり。)
もし一日を無駄に過ごさなければ、
日月を身体に包みこんでとり逃がすことはないのである。
(もしいたずらにすごさざるは、日月を皮袋に包含して、もらさざるなり。)
そうであるから、昔の聖人や賢人は、日月を大事にし、時間を大事にすることは、自分の眼玉よりも大事にし、国土よりも大事にしたのである。
(しかあるを、古聖先賢は、日月ををしみ光陰ををしむこと、
眼睛よりもをしむ、国土よりもをしむ。)
その日月を無駄に過ごすというのは、
名聞や利養の浮き世に惑わされていくことである。
(そのいたずらに蹉過するといふは、名利の浮世に濁乱しゆくなり。)
月日を無駄に過ごさないとは、
仏道のなかにありながら仏道のために行ずることである。
(いたずらに蹉過せずといふは、道にありながら道のためにするなり。)
合掌
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