〔『聞書』私訳〕 /「洞山悟本大師道」には「説取行不得底、行取説不得底
《行不得底を説取し、説不得底を行取す》」とある。
《傍注:行不得底の説取であるから説不得底であり、
説不得底の行取であるから行不得底である。》
この「不得」は「得」である。たとえば会・不会と使うようなことである。
また、過去心を説くときも、現在心を説くときも、未来心を説くときも、
みな不可得と説くようなのことである。
/「雲居山弘覚大師」の「道」には、「説時無行路、行時無説路」とある。諸法のとき実相の言葉はなく、実相のときは諸法の言葉はない。
諸法は諸法であると説くようなことである。
/「説」「行」の道理を大慈寰中カンチュウ禅師が始めて言うのではない。この理によって寰中は言うことができるいうような意味である。だから、「いまの道得は、寰中の自為道ジイドウにあらず」というのである。そうではあるが。また言うには言うところを返して「寰中の自為道なり」と言うのである。
〔『抄』私訳〕 洞山悟本大師の段、文の通りである。
「説取行不得底、行取説不得底《行不得底を説取し、説不得底を行取す》」とある。
これは「説」と「行」を各別に説かれるのである。「説」のときは「行」は隠れ、「行」のときは「説」は隠れる。「一方を証するときは一方はくらし」の道理である。しかし、前に説いたことと違いはないのである。
「雲居山弘覚大師」の段、文の通りである。 これもまた、「説」と「行」の理解の仕方は、前と違わない。つまり、「一生不離叢林」「洗頭到雪峰前」をもって「行持」と言うのである。
「一生不離叢林」は「趙州」の段で詳しく示されている。「説時には行路無く、行時には説路なし」である。そうであるが、「説時」「なきにあらず」、「不離叢林」の姿が「説時」である。「行路」もまた「なきにあらず」、「洗頭到雪峰前」の姿をもって「行路」と言うのである。
また「もし人が生きて百歳にならんとするに、諸仏の機を会せざらむは、未だ一日生きて之をよく決了せむには若シかじ」とある。
この文は『法句経』の文である。この文で、「阿難入定寂滅し給う」云々とある。
その理由は、ある時人がこの文を唱えて通るのを聞くと、「もし人が百歳生きて、水老鶴を見ざるは、未だ一日生きてこれをよく覩見するに若かず」とこのように誦して通り過ぎるとき、阿難アナン(釈尊に常に近侍し,その教説を最もよく記憶していた多聞第一の弟子)はこの誦する者を呼び入れて、「この文は経文である、自分勝手な言葉を入れてはいけない、悪く誦することになる」と言って、経文の通りに直されたので、この人は阿難の教えたように誦した。
しかし、またある時、先ほど悪く誦したように唱えて通り過ぎるので、また呼び入れて、「どうして、先ほど教えた通りに誦さず、前のように悪く誦するのか」と、言われたところ、「先ほど教えていただいたように誦するのは間違いで、ただ先程のように誦すべきだと人が言いますので、このように誦すのです」と答えた。
その時、阿難が、「仏がお隠れになって間もないのに、これほどまでに人がみな邪見に堕ちてしまっている。このような世に住んでいても仕方がない」と言って入滅されてしまった、云々。
合掌
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