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宏智禅師:仏道は三界が使うものではない『第十六行持』16-14-1b

〔『聞書』私訳〕                                             /「太白山宏智禅師正覚和尚」。                                 「大隠小隠」とは、俗の書では、「大隠は朝市に住し、小隠は丘樊キュウハン(郷村)に住す、人知らず、云々」という。ただ大小と使うだけで、別の意味はない。すでにあるをはなる、なきをもはなるべしとは、「名利」をはなれよと教え、ないものをどのようにはなれたらいいのかと

思われるが、あるものより、特にないものを願いいとなむようなことがあるときに、

ここをはなれよというのである。



〔『抄』私訳〕                                              「太白山宏智禅師正覚和尚」の段、文の通りである。                 これは、宏智禅師の入滅の後、師の「行業記」を著すときに、「道士観・尼寺・教院等」を併合して、「いまの天童寺となせり」と「行業記」に書くべきというのを、今の「左朝奉大夫の侍御史王伯庠」が、「不可なり、此の事、僧の徳に非ず」と言ったので、「行業記」に記載しなかった。この侍御史を褒めるのである。そのようなことは、「俗のすることであり、僧の徳ではない」のである。

 


           合掌


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