〔『正法眼蔵』原文〕
しかあればすなはち、塵労中人ヂンロウチュウニンなほかくのごとし。
出家人いかでか塵労中人よりも劣ならん、塵労中人よりもにごれらん。
向来コウライの仏祖のなかに、天の供養をうくるおほし。
しかあれども、すでに得道のとき、
天眼テンゲンおよばず、鬼神キジンたよりなし。
そのむね、あきらむべし。
天衆テンシュ神道シンドウもし仏祖の行履アンリをふむときは、
仏祖にちかづくみちあり。
仏祖あまねく天衆神道を超証チョウショウするには、天衆神道はるかに見上ケンジョウのたよりなし、仏祖のほとりにちかづきがたきなり。
南泉いはく、「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見ショケンせらる」。
しるべし、無修ムシュの鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
そういうことであるから、
俗世で苦労して生活している人でさえこのようである。
(しかあればすなはち、塵労中人なほかくのごとし。)
出家人がどうして俗世で苦労して生活している人より劣っていてよかろうか、俗世で苦労して生活している人より濁った生活をしていてよかろうか。
(出家人いかでか塵労中人よりも劣ならん、塵労中人よりもにごれらん。)
これまでの仏祖の中には、天人の供養を受けた方も多くあった。
(向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおほし。)そうではあるがすでに得道したときは、
天人の眼は届かず、鬼神が傍に寄り付くことはできなかった。
(しかあれどもすでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。)
その意味を明らかにすべきである。
(そのむねあきらむべし。)
天人や鬼神が、もし仏祖の行持を行持するなら、仏祖に近づく道はあるが、
仏祖が遍く天人や鬼神を超越して自己の真実を実証するときは、
天人や鬼神が仏祖をかなたに見上げる手がかりはなく、
仏祖の傍に近付くことはできないのである。
(天衆神道、もし仏祖の行履をふむときは、仏祖にちかづくみちあり。
仏祖あまねく天衆、神道を超証するには、天衆神道はるかに見上のたよりなし、
仏祖のほとりにちかづきがたきなり。)
南泉普願和尚が言った、
「わたしは修行の力がなくて鬼神に見られてしまった」と。
(南泉いはく、「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見せらる」。)
知らなければならない、修行のない鬼神に見られるのは、
参学人に修行の力がないからである。
(しるべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり。)
〔修行者として、そのようなことがあってはならない、
と言って会下の人を激励されるのである。〕
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。

コメント
コメントを投稿