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梅の実が熟したな『第十六行持』16-12-4

 〔『正法眼蔵』原文〕

 師いはく、「馬祖、われにむかひていふ、

「即心是仏ソクシン ゼブツ」」。すなはちこの山に住す」。

 僧いはく、「近日は仏法また別なり」。

 師いはく、「作麽生ソモサン別なる」。

 僧いはく、「馬祖いはく、「非心非仏」とあり」。


 師いはく、「這老漢シャロウカン、ひとを惑乱すること、了期リョウゴあるべからず。任他非心非仏、我祗管即心是仏《さもあらばあれ非心非仏、我れは祗管に即心是仏なり》」。        


この道ドウをもちて馬祖に挙似コジす。                        

馬祖いはく、「梅子熟也バイス ジュクヤ《梅子熟せり》」。


 この因縁は、人天ニンデンみなしれるところなり。


天龍テンリュウは師の神足ジンソクなり。


俱胝グテイは師の法孫なり。


高麗コウライの迦智キャチは、師の法を伝持して本国の初祖なり。


いま高麗の諸師は師の遠孫オンソンなり。                                  

生前ショウゼンには、一虎イッコ一象、よのつねに給侍す、あひあらそはず。


師の円寂ののち、虎象いしをはこび、泥をはこびて師の塔をつくる。


その塔、いま護聖寺ゴショウジに現存せり。   


師の行持、むかしいまの知識とあるは、おなじくほむるところなり。


劣慧レツエのものはほむべしとしらず。


貪名愛利トンミョウアイリのなかに仏法あらましと強為ゴウイするは、

小量の愚見なり。          


 
〔『正法眼蔵』私訳〕
師は言った、「馬祖がわたしに向かって、即心是仏(この心がそのまま仏だ)

言われた。それ以来この山に住むようになった」。

(師いはく、「馬祖われにむかひていふ、即心是仏。すなはちこの山に住す」。)


僧は言った、「近頃の馬祖の仏法はまた別です」。

(僧いはく、「近日仏法また別なり」。)

師は言った、「どのように別か」

(師いはく、「作麽生別なる」。)
 

僧は言った、

「馬祖は、非心非仏(心にあらず仏にあらず)と言われています」。

(僧いはく、「馬祖いはく、非心非仏とあり」。)


師は言った、「この老いぼれ奴、人をどこまで惑わす気か。

非心非仏がどうあろうとかまわない。わしはひたすら即心是仏だ」。

(師いはく、「這老漢、ひとを惑乱すること、了期あるべからず。

さもあらばあれ非心非仏、我れは祗管に即心是仏なり」。)                       


この言葉を馬祖に伝えた。

(この道をもちて馬祖に挙似す。)                 


馬祖は言った、「梅の実(大梅)が熟したな」。

(馬祖いはく、「梅子熟也」。)            


この故事は、人間界・天上界のみんなが知っているところである。

(この因縁は、人天みなしれるところなり。)


天龍(一指頭の禅)は師(大梅法常禅師)の優れた弟子であり、

俱胝(一指頭の禅)は師の孫弟子である。

(天龍は師の神足なり。俱胝は師の法孫なり。)                          


高麗(朝鮮半島)の迦智は、師の法を伝え保持して、高麗の初祖となった。

(高麗の迦智は、師の法を伝持して、本国の初祖なり。)


今の高麗の多くの禅匠は、師の遠孫である。

(いま高麗の諸師は、師の遠孫なり。)       


師の生前には、一頭の虎と一頭の象がいつも仕えており、

互いに争うことはなかった。

(生前には、一虎一象よのつねに給侍す、あひあらそはず。)


師の入滅の後、この虎と象が石を運び泥を運んで師の墓塔を作った。

(師の円寂ののち、虎象いしをはこび、泥をはこびて師の塔をつくる。)


その墓塔は今も護聖寺に現存している。

(その塔、いま護聖寺に現存せり。)                                


師の行持は、古今の仏法の指導者とされる人は、

みな同じように褒めるところである。

(師の行持、むかしいまの知識とあるは、おなじくほむるところなり。)


智慧の劣る者は、褒めるべきと知らない。

(劣慧のものはほむべしとしらず。)                            


名聞と利養を貪り愛する中に仏法があって欲しいと、

無理に名聞と利養を貪り愛するのは、度量が狭い愚かな考えである。

(貪名愛利のなかに仏法あらましと強為するは、小量の愚見なり。)



            合掌


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