〔聞書私訳〕 /「図 (様子) 」は「作仏」であり、「大徳」の「坐禅」の「図」である。 「図坐禅」という言葉がもれるているように思われるが、はっきりと現れている。 その訳は、「図は作仏より前なるべし」、「後なるべし」、「正当恁麼時なるべし」と言い、この「前」「後」並びに「正当恁麼時」は、みな坐禅であると心得るからである。 前の「図作仏」の言葉もこのように説かれているが、参学眼が未熟な時は、坐禅の字がない感じがするのである。 /打破という時は未打破があると思われ、脱落という時は未脱落があると思われる。しかし、未打破・未脱落の時はないのである。 もし未打破・未脱落を用いるときは、打破・脱落に乗ずる言葉として用いるのである。 未打破・未脱落は、前・後・正当恁麼時に関わらない未打破・未脱落であるから、凡夫の考えで、未の字を置けば未解脱の時と思うのは迷いである。 /「葛藤」という言葉が出てくれば、依倚 エイ の意味合いになるが、そうではない。 ただ「葛藤しもてゆく」とあるだけで、樹に倚るとも言わない。たとえ依倚と心得ることがあっても、「葛藤」が「葛藤」によると心得るべきである。 /「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か」とは、何事がどのようにしてということがないから、「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏」とも言うのである。 世間では、多く小乗の考えを用いて、長時間の修行によって「作仏」すると信じられている。 例えば、一声一念の名号によって成仏すると心得るのも「作仏」の意である。 〔『抄』私訳〕 「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。作仏たとひ万般 バンパン なりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏と道取するか。しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、坐禅かならず作仏の図なり。図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、作仏の正当恁麼時なるべし」とある。 「図作仏は脱落」、「脱落は図作仏」と、ただ同じ言葉を打ち返して言っている。これは、「坐禅」と「作仏」の間柄をこのように言われるのである。 「作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆく」とは、「作仏」の道理が多くあってもただこの「図」の道理である。 この「図」の道理は「葛藤」が「葛藤」を纏 マト い、「坐禅」が「坐禅」を纏い、「作仏」が「作仏」を纏うという道理である。 「図は作仏より前」、「作仏より...