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この坐禅の図に絡まり合っていくのを図作仏と言う『第十二坐禅箴』12-4-4b

  〔聞書私訳〕 /「図 (様子) 」は「作仏」であり、「大徳」の「坐禅」の「図」である。 「図坐禅」という言葉がもれるているように思われるが、はっきりと現れている。 その訳は、「図は作仏より前なるべし」、「後なるべし」、「正当恁麼時なるべし」と言い、この「前」「後」並びに「正当恁麼時」は、みな坐禅であると心得るからである。 前の「図作仏」の言葉もこのように説かれているが、参学眼が未熟な時は、坐禅の字がない感じがするのである。 /打破という時は未打破があると思われ、脱落という時は未脱落があると思われる。しかし、未打破・未脱落の時はないのである。 もし未打破・未脱落を用いるときは、打破・脱落に乗ずる言葉として用いるのである。 未打破・未脱落は、前・後・正当恁麼時に関わらない未打破・未脱落であるから、凡夫の考えで、未の字を置けば未解脱の時と思うのは迷いである。 /「葛藤」という言葉が出てくれば、依倚 エイ の意味合いになるが、そうではない。 ただ「葛藤しもてゆく」とあるだけで、樹に倚るとも言わない。たとえ依倚と心得ることがあっても、「葛藤」が「葛藤」によると心得るべきである。 /「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か」とは、何事がどのようにしてということがないから、「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏」とも言うのである。 世間では、多く小乗の考えを用いて、長時間の修行によって「作仏」すると信じられている。 例えば、一声一念の名号によって成仏すると心得るのも「作仏」の意である。 〔『抄』私訳〕 「図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。作仏たとひ万般 バンパン なりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏と道取するか。しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、坐禅かならず作仏の図なり。図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、作仏の正当恁麼時なるべし」とある。  「図作仏は脱落」、「脱落は図作仏」と、ただ同じ言葉を打ち返して言っている。これは、「坐禅」と「作仏」の間柄をこのように言われるのである。 「作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆく」とは、「作仏」の道理が多くあってもただこの「図」の道理である。 この「図」の道理は「葛藤」が「葛藤」を纏 マト い、「坐禅」が「坐禅」を纏い、「作仏」が「作仏」を纏うという道理である。 「図は作仏より前」、「作仏より...

図作仏=坐禅の様子が仏です『第十二坐禅箴』12-4-3a

〔『正法眼蔵』原文〕 江西いはく、『図作仏 ズサブツ 』。 この道、あきらめ達すべし。 作仏と道取するは、いかにあるべきぞ。 ほとけに作仏せらるるを作仏と道取するか、 ほとけを作仏するを作仏と道取するか、 ほとけの一面出、両面出するを作仏と道取するか 〔『正法眼蔵』私訳〕 〔南嶽に「大徳、坐禅して箇の何をか図る (坐禅して何を図るのか) と問われて、〕 馬祖が答えた、「坐禅の様子が仏 です」。」 (江西いはく、「図作仏」。) この言葉を、明らかにし本当にそうだと合点しなければならない。 (この道、あきらめ達すべし。) 作仏と言うのは、どういうことか。 (作仏と道取するは、いかにあるべきぞ。) 仏に仏にされることを作仏と言うのか、 仏を仏にすることを作仏と言うのか、 仏の面目がその時その時に現れるのを作仏と言うのか。 (ほとけに作仏せらるるを作仏と道取するか、ほとけを作仏するを作仏と道取するか、 ほとけの一面出、両面出するを作仏と道取するか。) 〔その時その時の様子が現れる (ほとけの一面出、両面出する〉 ことは、 誰でもが日常行っている通りのことです。 その時その時の様子だけがあり、不足も余分なものもありません。 そういう生活をしているところに、仏の境界がえるのでしょう。〕   図作仏=坐禅の様子が仏です『第十二坐禅箴』12-4-3b                         合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

図作仏=坐禅の様子が仏です『第十二坐禅箴』12-4-3b

  〔『抄』私訳〕 「江西いはく、『図作仏 ズサブツ 』。この道、あきらめ達すべし。作仏と道取するは、いかにあるべきぞ。ほとけに作仏せらるるを作仏と道取するか、ほとけを作仏するを作仏と道取するか、ほとけの一面出、両面出するを作仏と道取するか」とある。  江西は、南嶽に「大徳、坐禅図箇什麼」 (坐禅して箇の何をか図る) と問われ、「図作仏」と答えられた。これは風情なく、「仏に作 ナ ることを図る」と答えたように思われるが、そうではない。この「図」がそのまま「作仏」なのである。 この「図作仏」の道理が「ほとけに作仏せらるるを作仏と道取」し、「ほとけを作仏するを作仏と道取するか」という道理であるのである。 また、「ほとけの一面出、両面出」とは、一仏・二仏という言葉であり、一仏・二仏を「道取するか」と言うのである。この「図作仏」の道理がこれらのことに当たるのである。「坐禅」と「作仏」の間柄は、このように親密である道理である。                         合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

水が流れないのは車が行くことかと参ずべきである『第十二坐禅箴』12-4-2a

  〔『正法眼蔵』原文〕 たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行なるか。 流は水の不行といふつべし、水の行は流にあらざるにもあるべきなり。 しかあれば、「車若不行」の道を参究せんには、 不行ありとも参ずべし、 不行なしとも参ずべし、時なるべきがゆゑに 〔『正法眼蔵』私訳〕 例えば、水が流れるのは車が行くことか、 水が流れないのは車が行くことかと参ずべきである。 (たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行なるか。) 流れるとは水が行かないとも言える、 水が行くのは流れでないのもあるのである。 (流は水の不行といふつべし、水の行は流にあらざるもあるべきなり。) そうであるから、「車がもし行かなければ」の言葉を参じ究めるには、 行かないことがあるとも参ずべきであり、行かないことがないとも参ずべきである、それぞれその時その時の様子であるからである。 (しかあれば、「車若不行」の道を参究せんには、 不行ありとも参ずべし、不行なしとも参ずべし、時なるべきがゆゑに。) 〔不行あり、不行なし、どれもその時の在り様です。時は重なることがないのです。〕 水が流れないのは車が行くことかと参ずべきである『第十二坐禅箴』12-4-2b                         合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

水が流れないのは車が行くことかと参ずべきである『第十二坐禅箴』12-4-2b

〔『抄』私訳〕 「たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行なるか。流は水の不行といふつべし、水の行は流にあらざるにもあるべきなり。しかあれば、『車若不行』の道を参究せんには、不行ありとも参ずべし、不行なしとも参ずべし、時なるべきがゆゑに」とある。  これは、文の通りならば「水流」は本当に「車行」に当たり、「水不流」は「車不行」に当たるのに、「水不流は車行」であるとあり、文面は理解できないように思われる。 とはいうものの、「流」を「行」と理解し、「不流」を「不行」と理解する、この「流」「不流」は、〔流を行、不流を不行と理解する〕凡夫の考えを斥けるためとも理解できよう。 それに加えて、この「水流」「水不流」は、我々の眼の前のものと理解してはならず、坐禅と作仏の面目 (真の姿) を「水流」「水不流」と理解すべきである。「車行」「車不行」というのもこれほどの意である。 「水流」「水不流」がともに「車行」とある、これは「流」「不流」に関わらないということである。「車行」「車不行」もちょうど「水流」「水不流」ほどに理解すべきである。 「流は水の不行といふつべし」とは、一般に思うには、みな上から水が流れることを「流」と言い、車が行くのを「行」と理解するけれど、仏法では水の「流」の上に「不流」の道理があり、「不流」の上に「流」の道理があるのである。車の「行」「不行」もこのような道理を言うのである。 また、「車若不行の道を参究」するには、「不行ありとも参ずべし、不行なしとも参ずべし」とは、「行」「不行」に関わらない道理である。 「時なるべきがゆゑに」とは、この「行」「不行」と一時の公案現成する (瞬時に動かすことの出来ない確かな様子が現前する) のを「時なるべきがゆゑに」と言うのである。 〔聞書私訳〕 /「不行ありとも参ずべし、なしとも参ずべし」とは、参学の参ずる事である。「時なるべきがゆゑに」とは、「善悪は時なり、時は善悪に非ず」という意味合いである。時に従うから、「不行」の有無は時に従うべきであるからである。 /「車」の「不行」と言えばといって、歩くべきものが歩かないと理解してはいけない。「車」の全ての面の始めから終わりまでを「行」と使う時は、歩くのも「行」であり、歩かないのも「行」である。 「車」に「不行」を用いる時は、あちこち走り回っても「不行」である。だから、「打車」「打牛...

牛車がもし行かなければ、車を打つのが良いか、牛を打つのが良いか?『第十二坐禅箴』12-4-1a

〔『正法眼蔵』原文〕 南嶽いはく、 「如人駕車 ニョニンガシャ 、車若不行 シャニャクフギョウ 、打車即是、打牛即是 《人の車を駕するが如き、車若し行かずば、  車を打つが即ち是か、牛を打つが即ち是か》」。 しばらく、「車若不行」といふは、 いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行。 〔『正法眼蔵』私訳〕  南嶽が言った、 「人が牛車に乗っている時、牛車がもし行かなければ、 車を打つのが良いか、牛を打つのが良いか」。 (南嶽いはく、「如人駕車、車若不行、打車即是、打牛即是《人の車を駕するが如き、車若し行かずば、車を打つが即ち是か、牛を打つが即ち是か》。) しばらく、「牛車がもし行かなければ」とは、 どういうことを牛車が行くと言うのか、 どういうことを牛車が行かないと言うのか、と参ずるべきである。 (しばらく、車若不行といふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行。) 牛車がもし行かなければ、車を打つのが良いか、牛を打つのが良いか?『第十二坐禅箴』12-4-1b                         合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

牛車がもし行かなければ、車を打つのが良いか、牛を打つのが良いか?『第十二坐禅箴』12-4-1b

  〔『聞書』私訳〕 /「南嶽いはく、『如人駕車、車若不行《人の車を駕するが如き、車若し行かずば》』」とは、「人の車を駕する」とは『法華経』の大白牛車のことである。これは法華一乗 ( 一仏乗: 衆生 を乗せて悟りの世界に導く教えのたとえ ) であり、世間の車ではない。 /「車若不行」の「若」の字は、『仏性』の巻の「時節若至」 (時節若し至れば) の「若」のように心得るべきである。従って、「ひとへに不行と道取せるにあらず」と心得るのである。 「不行」の行は通常の歩みに准ずべきではなく、「山流水不流」に学ぶべきである。山の行は動かないのを「行」と言い、水は流れないのを「行」と言うのである。仏の行は流転を止めるのを「行」とするので、必ずしも普通の行を「行」とするのではない。 祖門の「行」はあちこち走り回ることを止めて端坐坐禅することを「行」とする。車の「行不行 (行くか行かない) 」はまだ知らないところである。 /「人の車を駕する」と言う、 「人」と「車」とは鏡と塼のようなものである。「人」と「車」は、一つや二つの議論では及ばないのである。「車」と「牛」は、これも鏡と塼と同じほどのことである。 だから、「車を打つ」のも「是 (良い) 」、「牛を打つ」のも「是」であるというのは、塼を研いで鏡とすると言うのと同じほどのことである。「人」と「車」と「牛」の三つを別々にすれば、坐禅は作仏、作仏は坐人のたとえにならないからである。 〔『抄』私訳〕 「南嶽いはく、『人の車を駕するが如き、車若し行かずば、車を打つが即ち是か、牛を打つが即ち是か』。しばらく、『車若不行』といふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行」とある。 大寂の「如何なるか即ち是か」の言葉について、南嶽が今重ねて「人の車を駕するが如し」という言葉を示されるのである。 「如何なるか即ち是か」の言葉は、「如何なるも作仏」という意味合いであり、「車」「牛」、「行」「不行」の語を重ねて示すことによって、今大寂の「如何なるか即ち是か」の言葉について述べられるのである。 本当にいかなるものも「作仏」であるからには、「車」も「牛」も漏れるわけはないのである。 ただ、この巻のように「車若不行というふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行」とよくよく気をつけて参学すべきである。 世間で人が車に乗り、それに牛を...