〔『正法眼蔵』原文〕
たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行なるか。
流は水の不行といふつべし、水の行は流にあらざるにもあるべきなり。
しかあれば、「車若不行」の道を参究せんには、
不行ありとも参ずべし、不行なしとも参ずべし、時なるべきがゆゑに
〔『正法眼蔵』私訳〕
例えば、水が流れるのは車が行くことか、
水が流れないのは車が行くことかと参ずべきである。
(たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行なるか。)
流れるとは水が行かないとも言える、
水が行くのは流れでないのもあるのである。
(流は水の不行といふつべし、水の行は流にあらざるもあるべきなり。)
そうであるから、「車がもし行かなければ」の言葉を参じ究めるには、
行かないことがあるとも参ずべきであり、行かないことがないとも参ずべきである、それぞれその時その時の様子であるからである。
(しかあれば、「車若不行」の道を参究せんには、
不行ありとも参ずべし、不行なしとも参ずべし、時なるべきがゆゑに。)
〔不行あり、不行なし、どれもその時の在り様です。時は重なることがないのです。〕
水が流れないのは車が行くことかと参ずべきである『第十二坐禅箴』12-4-2b
合掌
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