〔『聞書』私訳〕
/「南嶽いはく、『如人駕車、車若不行《人の車を駕するが如き、車若し行かずば》』」とは、「人の車を駕する」とは『法華経』の大白牛車のことである。これは法華一乗(一仏乗:衆生を乗せて悟りの世界に導く教えのたとえ)であり、世間の車ではない。
/「車若不行」の「若」の字は、『仏性』の巻の「時節若至」(時節若し至れば)の「若」のように心得るべきである。従って、「ひとへに不行と道取せるにあらず」と心得るのである。
「不行」の行は通常の歩みに准ずべきではなく、「山流水不流」に学ぶべきである。山の行は動かないのを「行」と言い、水は流れないのを「行」と言うのである。仏の行は流転を止めるのを「行」とするので、必ずしも普通の行を「行」とするのではない。
祖門の「行」はあちこち走り回ることを止めて端坐坐禅することを「行」とする。車の「行不行(行くか行かない)」はまだ知らないところである。
/「人の車を駕する」と言う、
「人」と「車」とは鏡と塼のようなものである。「人」と「車」は、一つや二つの議論では及ばないのである。「車」と「牛」は、これも鏡と塼と同じほどのことである。
だから、「車を打つ」のも「是(良い)」、「牛を打つ」のも「是」であるというのは、塼を研いで鏡とすると言うのと同じほどのことである。「人」と「車」と「牛」の三つを別々にすれば、坐禅は作仏、作仏は坐人のたとえにならないからである。
〔『抄』私訳〕
「南嶽いはく、『人の車を駕するが如き、車若し行かずば、車を打つが即ち是か、牛を打つが即ち是か』。しばらく、『車若不行』といふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行」とある。
大寂の「如何なるか即ち是か」の言葉について、南嶽が今重ねて「人の車を駕するが如し」という言葉を示されるのである。
「如何なるか即ち是か」の言葉は、「如何なるも作仏」という意味合いであり、「車」「牛」、「行」「不行」の語を重ねて示すことによって、今大寂の「如何なるか即ち是か」の言葉について述べられるのである。
本当にいかなるものも「作仏」であるからには、「車」も「牛」も漏れるわけはないのである。
ただ、この巻のように「車若不行というふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行」とよくよく気をつけて参学すべきである。
世間で人が車に乗り、それに牛を懸けて行くなどと心得るのは、今仏祖が説くところの「車」「牛」とは大変違うのである。
『法華経』は三乗の「車」を設け、三乗の「車」の上に大白牛車(白牛が引く七宝で飾られた大きな車)を説くが、これは我々が思っている「車」と大変違うので、仏道の「牛車」を軽率に理解してはならない。これを解釈されるのに、〔次に続く・・・〕
合掌
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