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我々の見聞覚知はみな常に初心である『第十二坐禅箴』12-1-6b

 〔抄私訳〕

「又一類の漢あり、「坐禅弁道はこれ初心晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行履アンリにあらず。行亦禅、坐亦禅、語黙動静体安然《行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静ゴモクドウジョウに体安然タイアンネン》なり。たゞいまの功夫のみにかかはることなかれ」。臨濟の余流と称ずるともがら、おほくこの見解なり。仏法の正命ショウミョウつたはれることおろそかなるによりて恁麼道インモドウするなり」とある。


坐禅を「初心晩学の要機」と言い、「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静に体安然」ということを嫌われるのである。これは「坐」だけでなく、「行」も「住」も「禅」であるから、ただ坐っているだけでは駄目だという考え方を嫌うのである。


ましてや、今の我々の行住坐臥等を指してこのように言うのは、

まったく問題外である。以下は文の通りである。


「なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。しるべし、学道のさだまれる参究には、坐禅弁道するなり」とある。


この言葉は、「坐禅」は「初心晩学の要機なり」(初心者や後進の修行者には大切な修行である)という言葉を注釈されるのである。


そもそも「初心」とはどういうことを言うのか。さらに、「法界唯心」(一切のものは心の現れである)と言う時の「初心」はどんな所に置くのか。「初心」でない何かあるのか、「初心」と言う時は一切のものはことごとく「初心」である。他に、「初心」を置く所などあるはずはないのである。



〔聞書私訳〕

/「なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく」とは、「三界唯一心」(三界はただ一心の現れで、心の外は何もない)と説いた以上は、「初心」、後心と置くことはできず、どこと分けることはできない。


「初発心時、便成正覚」初発心の時、便ち正覚を成ずと言うのは初発心の時、正覚(悟り)の功徳を具えると聞こえるが、そうではなく、「便成正覚」は「初発心の時」であると言うのである。



                       合掌



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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