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どうして仏法を学んでいる者と言えようか 『第十二坐禅箴』12-1-5b

 〔抄私訳〕

「そうであるのに、最近の愚かな杜撰な僧たちは言う、『坐禅を修行して、心の内に何事も無いようになれば、それが平穏な境地である』。この見解は、小乗仏教の論典学者にも及ばず、人間界や天上界の衆生が学ぶ教えよりも劣っている。どうして仏法を学んでいる者と言えようか。」とある。


原文の通り。つまるところ、胸の内に物がなくキラキラと輝いているところを「それが平穏な境地である」という見解をこのように嫌われるのである。



〔聞書私訳〕

/「それが平穏な境地である」とは、「心の内に何事も無いようになれば」、善悪の法(現象)もないから、「平穏な境地」と言うのである。「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静に体安然」歩くのもまた禅、坐るのもまた禅、語るのも黙するのも動くのも止まるのも、みな禅の在り様である)と言う。


以上の二つの言葉は、上の「それが平穏な境地である」は「坐禅」の時のことを指し、次の「行もまた禅」の言葉は、必ずしも「坐禅」をしなくても行住坐臥等がみな禅であるという邪見を出されるので、どちらも用いてはならないのである。


もしこれらの言葉をしばらく許して、「坐禅」「語黙」「動静」等を、みな仏法の上に置く(宗意に取り込む)時は、この「行」は歩くと理解してはならず、仏行である。仏行である「坐禅」である。この「坐」は今の「坐禅」であり、ただ徒に坐るのを禅と言わず、仏行の「坐禅」のことである。


「語黙動静」語るのも黙するのも動くのも止まるのも)もまたみな仏の威儀を指すのであり、徒に衆生の「語黙動静」と思ってはならない。「黙」と言うのも仏の無言の説法ほどのことである。「動」もすべてのものを動かして実相(真実のすがた)というほどのことである。「静」も実相を実相というほどのことである。


「語」「黙」と言ってもそのふるまいは一つではないと言わなければならない。けれども、これらの言葉を引かれる意はその邪見を破るためであり、まったく用いない方が良いのである。


/〔天台止観の四種三昧では、〕意の止観、口の説黙、身の威儀などと立てる。身の威儀について、常行常坐・半行半坐三昧・非行非坐と言う、この行と理解してはならず、この坐と理解してはならない。これは宗門の仏行・仏坐とはるかに異なるのである。


修行には段階があり、証を説くにも分証即(真理の一部分を体現している段階)と言って、一分二分と分かち、初地(十地の第一位)より十地(菩薩の最高の修行段階)までそれぞれの段階に応じた証がある。宗門の証はそういうことではないのである。


〔道元禅は天台止観の四種三昧や六即説と異なることを明言するのである。〕



                       合掌



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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