『第十二坐禅箴』第一段〔薬山弘道大師と僧の問答、
「兀々地ゴツゴツチは何を思量するのか」〕
〔『正法眼蔵』原文〕
薬山弘道大師、坐次有僧問、「兀々地ゴツゴツチ思量什麼シリョウシモ」
《薬山弘道大師ヤクサンコウドウダイシ、坐次ザスルツイデに、有る僧問ふ、
「兀々地什麼ナニをか思量せん」》。
師云イハク、思量箇不思量底《箇の不思量底を思量す》。
僧云、不思量底如何シュオ思量《不思量底、如何イカンが思量せん》。
師云、「非思量」。
大師の道ドウかくのごとくなるを証して、兀坐ゴツザを参学すべし、
兀坐正伝ショウデンすべし。兀坐の仏道につたはれる参究なり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
正法眼蔵第十二 坐禅箴ザゼンシン(坐禅の急所)
薬山弘道大師が、坐禅しているとき、ある僧が尋ねた、
「ゴツゴツと坐って何を思量しておられるのですか」。
〔底意は:ゴツゴツと坐って何を思量しておられるのですね。〕
(薬山弘道大師、坐次に、有る僧問ふ、「兀々地什麼をか思量せん」。)
師の薬山が言った、「この今の思量しない様子を思量しているのである」(今このようにある、思量しない今の様子に居るのである)。
(師云、「思量箇不思量底」(箇の不思量底を思量す)。)
僧が言った、「思量しない様子はどのように思量するのですか」。
〔底意は:思量とも言えず、不思量とも言えないから、如何と思量するのですね。〕
(僧云、「不思量底如何思量」。)
師が言った、「思量ではなく実物である」。
(師云、「非思量」。)
薬山大師がこのように言っていることは確かにその通りだと合点して、
兀坐(ゴツゴツと坐る坐禅)を親しく学び、兀坐を正しく伝えなさい。
(大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし、兀坐正伝すべし。)
ゴツゴツと坐ることが、仏道に伝わった坐禅の実践である。
(兀坐の仏道につたはれる参究なり。)
〔『正法眼蔵』評釈〕
見ようと思わなくても(不思量底)目の前の物が見える。
聞こうと思わなくても(不思量底)「カア!カア!」と聞こえる。
嗅ごうと思わなくても(不思量底)香りがする。
思おうとしなくても(不思量底)思いが浮かぶ。
これが、その時その時の、見える、聞こえる、香る、味がする、体感がある、思いがあるなどの生命活動の実物(非思量)である。
このような生命活動の実物のままに居る(不思量底を思量する)のが、坐禅である。
これが、坐禅の急所(坐禅箴)である。
合掌
坐禅の急所:生命活動の実物のままに居る『第十二坐禅箴』12-1-1b
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