正法眼蔵抄坐禅箴ザゼンシン第十二
正法眼蔵第十二坐禅箴
観音導利興聖宝林寺カンノンドウリコウショウホウリンジ
〔聞書私訳〕
/坐禅箴(坐禅の急所)は、十一段に分けて説くこと。
/第一 薬山弘道大師と僧の問答、「兀々地ゴツゴツチは何を思量するのか」ということ。
第二 江西コウゼイと南嶽ナンガクの問答、「この何を図るのか」ということ。
第三 「瓦を磨がいて鏡とする」ということ。
第四 「人が車に乗るようなものである、車がもし行かなければ」ということ。
第五 南嶽の言葉、「汝が坐禅を学べば、坐仏を学ぶのである」ということ。
第六 「もし坐禅を学ぶなら、禅は坐臥ではない」ということ。
第七 「もし坐仏を学ぶなら、仏は定相ではない」ということ。
第八 「汝がもし坐仏すれば、即ちこれは殺仏セツブツである」ということ。
第九 「もし坐相に執着すれば、その理に達するのではない」ということ。
第十 宏智禅師ワンシゼンジの『坐禅箴』のこと。
第十一 永平寺和尚の『坐禅箴』のこと。
/坐禅箴(坐禅の急所)坐禅箴とは坐禅の標準であり、坐禅の在り様を示す。
『坐禅箴』は父母未生(父母が未だ生まれていない時)の節目(通らなければならない関門)であり、取りも直さず今の坐禅を指すのである。
/父母未生前(父母が未だ生まれていない前)とは、仏向上(修行をどこまでも継続していくことによって、仏の境涯をも超えること)のことであり、下に対する上ではない。父母所生に対する未生前(未だ生まれていない前)ではない。
坐禅の面目(本来の姿)は、衆生の作業(人間のなす営為)ではないから、坐禅は人間界にあることではない。
坐禅の時は坐禅の我なのであり、普段の我ではないのである(仏の方より見た我である)。
/坐禅をそのまま坐仏(坐っている仏)と言うのが今の脱落(あらゆるとらわれから解放されている境地)である。脱落によって葛藤(仏法が仏法にまとわりつくこと)していくのである。喪身失命(仏法だけになって身命を喪失する)というのも坐禅の我の時である。
合掌
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