〔抄私訳〕 「その榜様 ボウヨウ の宗旨 シュウシ は、作仏をもとめざる行仏あり。行仏さらに作仏にあらざるがゆゑに、公案現成 コウアンゲンジョウ なり」とある。 今の「坐禅」は、「作仏をもとめざる行仏あり、行仏さらに作仏にあらざる」道理である。「作仏」の「公案現成」であり、「行仏」の「公案現成」である。 「身仏さらに作仏にあらず、籮籠打破 ラロウタハ すれば坐仏さらに作仏をさゑず。」とある。 仏に成ると言えば、必ずまず身を差し出すのである。「身仏」 (自分の身心の仏行がそのまま仏の身心である) と言う時はすっかり「身仏」であり、「身仏」の外に他の「仏」はなく、「身仏」を「作仏」する (仏に作 ナ る) と思ってはいけない。 「籮籠打破」とは、今前に言った「行仏」「作仏」「身仏」等のいろいろとある言葉を「打破」してしまえば、「坐仏さらに作仏」すると言っても、決して差し支えない (さゑず) と言うのである。つまるところ、この意味合いは究極の解脱の理に至ったなら、身が「作仏」すると言っても、何と言っても差し支えないと言うのである。 「正当恁麼のとき、千古万古、ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。進歩退歩、したしく溝 ミゾ にみち壑 タニ にみつ量あるなり。」とある。 この「籮籠打破」の「正当恁麼のとき」は「ほとけにいり魔にいる」と言う。「魔」も「進」も「退」も、みな円満・満足の意味であるから、「溝にみち壑にみつ量あるなり」と言うのである。 〔聞書私訳〕 /「ほとけにいり魔にいるちからあり」というのも坐禅である。仏祖を超越しているのを「ほとけにいり魔にいる」と使う。入の一字は用いるまでもないのである。 /「進歩退歩」とは、進み退く歩みである。百尺の竿頭を「進歩退歩」する「進」と「退」は異なるけれども百尺の竿頭の上のことである。 「坐仏」「作仏」というのも「坐禅」の一面の上で説く理であり、例えばこのように竿頭の上を歩むのではなく、取りも直さず竿頭そのものを「歩む」とするので、この道理に落ち着くべきである。 /「溝にみち壑にみつ量」とは、「ほとけにいり魔にいる」と言うほどの言葉であり、つまるところ、満ちている意である。 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ...