〔『正法眼蔵』原文〕
しかあるに、近年おろかなる杜撰ズサンいはく、
「功夫坐禅、得胸襟無事了トクキョウキンブジリョウ、便是平穏地也ベンゼヘイオンチヤ
《功夫坐禅は、胸襟無事なることを得了りぬれば、便ち是れ平穏地なり》」。
この見解ケンゲ、なほ小乗の学者におよばず、
人天乗ニンテンジョウよりも劣なり。
いかでか学仏法の漢といはん。
見在ケンザイ大宋国に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪コウブかなしむべし。
〔『正法眼蔵』私訳〕
そうであるのに、最近の愚かな杜撰な僧たちは言う、
「坐禅を修行して、心の内に何事も無いようになれば、
それが平穏な境地である」と。
(しかあるに、近年おろかなる杜撰いはく、
「功夫坐禅、得胸襟無事了、便是平穏地也
《功夫坐禅は、胸襟無事なることを得了りぬれば、便ち是れ平穏地なり》」。)
この見解は、小乗仏教の論典学者にも及ばず、
人間界や天上界の衆生が学ぶ教えよりも劣っている。
(この見解、なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣なり。)
どうして仏法を学んでいる者と言えようか。
(いかでか学仏法の漢とはいはん。)
現在大宋国にはそのような修行者が多い、
仏祖の道が荒れ果てていることは悲しい限りである。
(見在大宋国に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし。)
合掌
どうして仏法を学んでいる者と言えようか 『第十二坐禅箴』12-1-5b
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