〔『正法眼蔵』原文〕
又一類の漢あり、「坐禅弁道はこれ初心晩学の要機なり、
かならずしも仏祖の行履アンリにあらず。
行亦禅、坐亦禅、語黙動静体安然
《行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静ゴモクドウジョウに体安然タイアンネン》なり。
たゞいまの功夫のみにかゝはることなかれ」。
臨済の余流と称ずるともがら、おほくこの見解なり。
仏法の正命ショウミョウつたはれることおろそかなるによりて恁麼道インモドウするなり。
なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。
〔『正法眼蔵』私訳〕
また、ある類タグイの人がいて、「坐禅修行は、初心者や後進の修行者には大切な修行であるが、必ずしも仏祖のありようではない。
(又一類の漢あり、「坐禅弁道はこれ初心晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行履にあらず。)
歩くのも禅、坐るのも禅、語るのも黙するのも動くのも止まるのも、
みな禅のありようである。
(行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静に体安然なり。)
ただ今の坐禅修行だけに関わってはならない」と言う。
(ただいまの功夫のみにかかはることなかれ」。)
臨済の流れと称する者は、多くがこの見解である。
(臨済の余流と称ずるともがら、おほくこの見解なり。)
釈尊の正しい命脈が伝わることが疎かであるから、
このように言うのである。
(仏法の正命つたはれることおろそかなるによりて恁麼道するなり。)
何が初心なのか、どれが初心でないのか、初心をどこに置くのか。
(なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。)
〔我々の見聞覚知はみな常に初心である。すべて今生まれて初めて触れる様子である。それが一瞬一瞬新しく生きる我々の本当のありようなのである。〕
知るといい、道(人の本当の生き様)を学ぶための定まっている参究には、坐禅修行が一番である。
(しるべし、学道のさだまれる参究には、坐禅弁道するなり。)
合掌
我々の見聞覚知はみな常に初心である『第十二坐禅箴』12-1-6b
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