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正7-4-1a『第七一顆明珠』第四段1a 原文私訳〔すべての世界は一個の明珠である、それを見よ〕

〔『正法眼蔵』原文〕

 「尽十方」といふは、逐物為己チクモツイコ逐己為物チクコイモツ

《物を逐ひて己と為し、己を逐ひて物と為す》の未休なり。


情生智隔ジョウショウチカク《情生ずれば智隔たる》を隔と道取ドウシュする、

これ回頭換面カイトウカンメンなり、展事投機なり。


逐己為物のゆゑに未休なる尽十方なり。


機先の道理なるゆゑに機要の管得にあまれることあり。



〔『正法眼蔵』私訳〕 

 「尽十方」とは、四方八方上下ではなく、万物を逐えば自己となり、

自己を逐えば万物となるという自己・万物一如の無辺際のありようである。

(「尽十方」といふは、逐物為己、逐己為物

《物を逐ひて己と為し、己を逐ひて物と為す》の未休なり。)


人情が生ずると智慧が隔たるのを隔と言うのは、顔の向きを換えただけで、本来の面目(一顆明珠)は少しも変わらないのである。

(情生智隔《情生ずれば智隔たる》を隔と道取する、これ回頭換面なり、展事投機なり。)


〔僧が人情と智慧を分別して「情生智隔」と自己の見処を展べれば、

師は「隔」と言って教えを垂れるのである。

人情と智慧は別物でなく、ともに尽十方であり一顆明珠である。〕


万法を逐えば自己となり、自己を逐えば万法となるから、

自己・万法一如の無辺際である尽十方なのである。

(逐己為物のゆゑに未休なる尽十方なり。)


「尽十方世界是一顆明珠」は、機先(はたらきが起こる前)の道理であるから、

どんな機要(はたらきのもっとも肝心なところ)も手に余るのである。

(機先の道理なるゆゑに機要の管得にあまれることあり。)



                               合掌 
                              

『第七一顆明珠』第四段1a 原文私訳

〔すべての世界は一個の明珠である、それを見よ〕



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