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正6-23-1『第六行仏威儀』第二十三段① 〔三世の諸仏は、火焔の中にあって仏の大法を説く〕

〔『正法眼蔵』原文〕

 雪峰山セッポウサン真覚シンガク大師ダイシ、示衆云ジシュウニイハク

「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪

《三世諸仏、火焔裏に在つて大法輪を転ず》」。


 玄砂院ゲンシャイン宗一ソウイチ大師云、

「火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴

《火焔の三世諸仏の為に説法するに、三世諸仏は地に立ちて聴く》」。


 圜悟エンゴ禅師云、

「将謂猴白、更有猴黒、互換投機、神出鬼没

《将マサに謂オモへり猴白コウハクと、更に猴黒有り。互換の投機、神出鬼没なり》」。


 烈焔亙天仏説法、亙天烈焔法説仏。                 

《烈焔亙天レツエンコウテンは、仏、法を説くなり、亙天烈焔は、法、仏を説くなり。》


 風前剪断葛藤窠、一言勘破維摩詰。

《風前に剪断センダンす葛藤窠カットウカ、一言に勘破カンパす維摩詰ユイマキツ。》



〔抄私訳〕

「雪峰山真覚大師、示衆云、『三世諸仏、在火焔裏、転大法輪』。

いま三世諸仏といふは、一切諸仏なり。行仏すなはち三世諸仏なり。

十方諸仏、ともに三世にあらざるなし。」とある。


これは、十月一日の開炉(炉を使い始めること)の上堂(住職が法堂の法座に上がり説法を行うこと)の時の言葉である、云々。

だからゆかりがあるので火焔の言葉をあげられるのである。

もし滝の付近で上堂があれば、水の言葉をあげられたであろう。

水と火の違いはないのである。


〔聞書私訳〕

/「雪峰山真覚大師、示衆云、

『三世諸仏、在火焔裏、転大法輪』とある。


教家で法報応の三身を立てるときに、法身(真理そのものとしての仏)は遍法界(全宇宙)を仏と説けば、その時は依報(環境)正報(身体)を立てず、青黄赤白ショウオウシャクビャク(人間が認識する色彩)とも長短方円(人間が認識する形)とも言わない。これを内証(仏祖によって明らかにされる悟りの境涯)と取る。


外融(対機説法)では、釈迦の八種の相(八相成道)を説いて衆生と縁を結び、救済の対象に対して機縁による説法がされる。

「三世諸仏」もこれほどに説き、法身には三世もないのである。


今の「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」するという仏は能所(行為者・対象物)がなく、誰のために説法すると言わず、所在の処ばかりを言うのである。


玄砂が「三世諸仏立地聴法」と言うからには、今は説く者も聴く者も

所在の処も仏の教化を被る機縁もそれぞれ別のものではないのである。



〔『正法眼蔵』〕私訳〕

雪峰山真覚大師は、大衆(修行僧たち)に示して言う、

「三世の諸仏は、火焔の中にあって仏の大法を説く」。

(雪峰山真覚大師、衆に示して云く、「三世諸仏、火焔裏に在つて大法輪を転ず」。)


玄砂院宗一大師は言う、

「火焔が三世諸仏の為に説法すると、三世諸仏は地に立って聴く」。

(玄沙院宗一大師云く、「火焔三世諸仏の為に説法するに、三世諸仏地に立ちて聴く」。)


圜悟禅師は言う、

「まさに雪峰は猴白で〔衆生の妄想執着を引ったくる〕大泥棒だと

思っていたら、玄砂は猴黒でさらに上手の大泥棒だ。

(圜悟禅師云く、「将に謂へり猴白と、更に猴黒有り。)


〔師匠の雪峰が諸仏を主とすれば、弟子の玄砂は火焔を主とし、〕

あれこれと取り換える働きが神出鬼没である」。

(互換の投機、神出鬼没なり」。)


烈しい火焔が天に満ちるとは、仏が法を説くことであり、

満天が烈しい火焔であるとは、法が仏を説くことなのである。

(烈焔亙天は、仏、法を説くなり、亙天烈焔は、法、仏を説くなり。)

〔法と仏は一体である。〕


火焔の説法で、葛や藤のようなものに絡まれた法執(仏法や真理に対する執着)を断ち切り、                        

雪峰の一言で維摩が默の一方に片寄っていることを見破った。

(風前に剪断す葛藤窠、一言に勘破す維摩詰。)



                                 合掌

                               


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