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総裁選挙期間中『正法眼蔵』ブログの配信を休みます。かわりに、

 今回の自民党総裁選挙は、30年の長期低迷中の日本を成長へと大胆に改革していけるか駄目かの運命を決めるものと、私は考えています。9名全員のビジョン・政策・発言を聞き、人気投票で選ばれるような総裁では、日本の成長は無理と考えられます。 そこで、369人の自民党国会議員と 105万人の自民党員が、日本の未来のために正しい判断をしてくれるよう、一つの意見としてSNSで発信しようと考えています。 まず、 拝啓 自民党国会議員各位  として新しいブログを始めました。時折覗いてみてください。またご意見などあれば是非およせください。 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正5-7-2『第五即心是仏』第七段後半〔心とは山河大地であり、太陽月星である〕〔『正法眼蔵』私訳〕

〔聞書私訳〕 /古徳いはく、作麼生 ソモサン ならんか是れ妙浄明心、山河大地日月星辰。」と言って、この道理こそ、「大地さらにあつさ三寸をます」と言われるのである。「山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし」という所より、「竹なし、木なし」という所までは、「即心是仏」であると説く意味合いである。「不染汚」の法をこのように説くのである。「馬なし猿なし」と言う、『梵網経 ボンモウキョウ 』で心の馬が悪道に馳せると言い、亦、猿が鎖を着るが如しという意味である。 /「即心是仏、不染汚の即心是仏なり。諸仏、不染汚の諸仏なり」と言う、 波浪が無い事を言ったようである。「山河大地心は、山河大地のみなり」という意は、例えば、実相 (真実のありのままのすがた) と説くのも「即心是仏」であり、真如 (かくあるがままのすがた) と説くのも「即心是仏」であり、仏性と説くのも「山河大地日月星辰」であり、ことごとく「即心是仏」である。この上は、別に仏々も祖々もないのである、ただ、「即心是仏のみ」とあるから。 /「山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は、日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去来心は、生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は、牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心は、四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心は、椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。 」と言う、 この意は別のことでは無く、「即心是仏」であるというのである。例えば、仏体を言う時は、土とも言わず、木とも言わず、金とも言わず、ただ、仏体と言う。袈裟 ケサ を言う時は絹や布などの素材を論ずることなく、ただ、仏衣だ、袈裟だというように理解すべきである。 〔『正法眼蔵』私訳〕  潙山 イサン が仰山 ギョウサン に 「妙浄明心とはどういうものか」と問うと、 仰山は 「それは山河大地や太陽月星々です」と答えた。 (古徳云、「作麼生 是妙浄明心。山河大地 、日月星辰 《作麼生ならんか是れ妙浄明心。山河大地、日月星辰》。」) これではっきりと分かった、心とは山河大地であり、太陽月星々である。 (あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。) そうであるけれども、その言うところを、 本当にそうだと思ったり少し分からないと思ったりすると、足り

正5-7『第五即心是仏』第七段〔心とは山河大地であり、太陽月星である〕

〔『正法眼蔵』原文〕  古徳云、「作麼生 ソモサン 是妙浄明心。山河大地 センガダイチ 、日月星辰 ニチガツセイシン 《作麼生ならんか是れ妙浄明心。山河大地、日月星辰》。」  あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。 しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。 山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。 日月星辰心は、日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。 生死去来心は、生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。 牆壁瓦礫心 ショウヘキガリャクシン は、牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。 四大五蘊心は、四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。 椅子払子心 イスホッスシン は、椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。 かくのごとくなるがゆえに、即心是仏、不染汚即心是仏なり。 諸仏、不染汚諸仏なり。 〔抄私訳〕 「即心是仏の心とはいかなるぞ、是妙浄明心なり」と言うのは自問自答である。 本当に、「即心是仏」の心は、「不染汚 フゼンナ 」 (分別心に汚染されない) の心だから、「妙浄明心」 (霊妙で浄く明るい心) であることを疑うべきではない。 結局、「この心は山河大地なり、日月星辰なり、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。」とは、「妙浄明心」はしばらく「あまれり」と思われ、「山河大地日月星辰」は「不足」と思われる。 「心」の言葉がないからという意もあろう。 又、「山河大地心」の言葉は、「あまれり」に似ており、「山河大地」の言葉は「不足」に似ている、「心」の語がないから。しかし、この「あまる」「不足」の言葉は、まったく平凡な考えの言葉ではない。ただ、落ち着く所、「妙浄明心」を、「あまる」とも「不足」とも説くのである。そうであるか、「妙浄明心」の外に、余物を交えない道理である。 この他に「迷なし、悟なし」「馬なし、猿なし」などという言葉は、皆仏道にかなっている。「波浪なし、風煙なし」の言葉は、只、「山河大地」のときは「山河大地」だけであり、「風煙」とも「波浪」とも言わないという意味合いである。これは一法が究尽する時、他のものを寄せ付けず独立する道理である。 以下は皆同じ意である。その言葉についてその縁のある言葉を、「なし」「なし」と言われるのである。だから、「即心是仏、不染汚の即心是仏なり。

正5-6『第五即心是仏』第六段〔もしものの真相がはっきりすれば、どこにも今の様子の他に何もないのである〕

〔『正法眼蔵』原文〕  このゆゑに古人いはく、「若人識得心、大地無寸土《若し人、心を識得せば大地に寸土 スンド 無し》」。  しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落 ガイテンボクラク し、匝地裂破 ソウチレッパ す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。 〔抄私訳〕 「心」の究尽する時節には、「大地無寸土」と言われる「心」が「心」である時節には、「蓋天撲落し、匝地裂する」 (天全体が崩れ落ち、地全体が引き裂かれる) のである。 そのわけは、「心」の一法が独立する姿が、「撲落し」「裂破する」のである。全て「心」の外に、物が交わることがない道理であり、肩を並べるものがない意味である。 或いは、「心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます」とは、「心」の究尽する時は、「心」の外に肩をならべる物がないので、「蓋天撲落し、匝地裂破す」と言われる。「山河」等を「心」と説く時、「あつさ三寸をます」としばらく言うのである。数にとらわれてはいけない、また増減が無いことである。 〔聞書私訳〕 /「古人いはく、『若し人、心を識得せば大地に寸土 スンド 無し』」とある。 「三界唯一心」とは、識心 (心のはたらきの主体としての八識) を見きわめると、わずかな「土」もないのである。そうであるなら、また「蓋天も撲落し」、「匝地も裂破する」のである。 /或いは、「心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます、」と言う。「心」を用いて「心」を説く時は、前に言ったように、「蓋天撲落し、匝地裂破する」のである。また、「山河大地」のように「撲落」もせず、「裂破」とも言わず、「山河」を働かさないで「心」と説く時は、「あつさ三寸をます」道理があるというのである。 〔『正法眼蔵』私訳〕  だから古人 (長霊守卓禅師) は言う、「もしものの真相がはっきりすれば、 どこにも今の様子の 他に何もないのである。」と。 (このゆゑに古人いはく、「若人識得心、大地無寸土《若し人、心を識得せば大地に寸土 スンド 無し》」。) 〔ホーホケキョ!と聞こえる時は、ホーホケキョ!の様子の他には何もないのです。〕  知るべきである、ものの真相がはっきりするとき、天全体が落ち、地全体が裂けるのである (何もかもその様子があるだけである) 。 (しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落 し、匝地裂破 す。) 或いは、もの

正5-5-2『第五即心是仏』 第五段② 〔ただ仏祖と仏祖だけが即心是仏してきた〕〔聞書私訳〕〔『正法眼蔵』私訳〕

  〔聞書私訳〕 /「仏百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども、丈六の金身に説似せず。」とは、「拈却」とは別に子細は無く、取ることである。「打失」は失うことである。今は、「仏百草」と言っている時に主客もなく、この「百草」を取りもせず、失うということでもない。そのわけを「説似せず」 (似せて説かず) と説くのである。 /「即公案あり、見成を相待せず、敗壊を𢌞避せず。」と言う、 「公案」という事も、理解する方法はいろいろある。例えば、「公」を公 オオヤケ の物事として何であっても、これはどのような事だと理解する。「案」は、学者によって、先に言った「公」の物事の不審なところを調べる意味である。 このように言えば、「案」は未だ「見成」していない時のこと である。今の『正法眼蔵第一』の巻名に『見成公案』と名付ける、「見成」の所に「公案」があり、「公案」の所に「見成」は現われる。これらはおおよそのことである。 今は、「即公案」と言い、格別に「見成を相待せず、敗壊を廻避せず」と言い、「見成」の道理を、具えているとも具えていないともいう言及はない。ただ「即心是仏」の「即」の字だけを取るのである。 /「一心一切法、一切法一心」 (この一心が一切の法であり、一切の法がこの一心である) と言う、 「即心是仏」をこのように言われるのである。天台宗などでは、この「一心一切法、一切法一心」という事は、ただ竪 (順番に段階を経て進むこと) 横 (順番を超えて一足飛びにいくこと) の道理である。竪横は共に不可と判ずるから、この草子の説は、天台宗で廃された説のようである。 しかし、竪横を立て共に不可だと嫌うのは、「将錯就錯 ショウシャクジュシャク」 (錯まりをもって錯まりに就く) という事を学ばないからである。「一心一切法」をそのまま「一心一切法」と付け、「一切法一心」を「一切法一心」と付ければ、不可と説く所はない。不可と嫌われる言葉を、仏法の至極と学ぶのである。 近頃の禅僧と称する輩の見解では、「以心伝心」と言って、心を用いて心に伝えることこそが仏の本懐 (本来の願い) であり、言葉を用いて言葉を伝えるのは本意ではない、それは教家 (経論に準拠している家風を持つ宗派) の心だと言う。これも、「将錯就錯」を知らない輩がこのように言うのである。だから、「将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零