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正5-7『第五即心是仏』第七段〔心とは山河大地であり、太陽月星である〕


〔『正法眼蔵』原文〕

 古徳云、「作麼生ソモサン是妙浄明心。山河大地センガダイチ、日月星辰ニチガツセイシン

《作麼生ならんか是れ妙浄明心。山河大地、日月星辰》。」


 あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。


しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。


山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。


日月星辰心は、日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。


生死去来心は、生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。


牆壁瓦礫心ショウヘキガリャクシンは、牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。


四大五蘊心は、四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。


椅子払子心イスホッスシンは、椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。


かくのごとくなるがゆえに、即心是仏、不染汚即心是仏なり。


諸仏、不染汚諸仏なり。



〔抄私訳〕

「即心是仏の心とはいかなるぞ、是妙浄明心なり」と言うのは自問自答である。

本当に、「即心是仏」の心は、「不染汚フゼンナ(分別心に汚染されない)の心だから、「妙浄明心」(霊妙で浄く明るい心)であることを疑うべきではない。


結局、「この心は山河大地なり、日月星辰なり、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。」とは、「妙浄明心」はしばらく「あまれり」と思われ、「山河大地日月星辰」は「不足」と思われる。


「心」の言葉がないからという意もあろう。又、「山河大地心」の言葉は、「あまれり」に似ており、「山河大地」の言葉は「不足」に似ている、「心」の語がないから。しかし、この「あまる」「不足」の言葉は、まったく平凡な考えの言葉ではない。ただ、落ち着く所、「妙浄明心」を、「あまる」とも「不足」とも説くのである。そうであるか、「妙浄明心」の外に、余物を交えない道理である。


この他に「迷なし、悟なし」「馬なし、猿なし」などという言葉は、皆仏道にかなっている。「波浪なし、風煙なし」の言葉は、只、「山河大地」のときは「山河大地」だけであり、「風煙」とも「波浪」とも言わないという意味合いである。これは一法が究尽する時、他のものを寄せ付けず独立する道理である。


以下は皆同じ意である。その言葉についてその縁のある言葉を、「なし」「なし」と言われるのである。だから、「即心是仏、不染汚の即心是仏なり。諸仏、不染汚の諸仏なり」(即心是仏は、分別心に汚されない即心是仏である。諸仏といえば、分別心に汚されない諸仏だけである)と解釈されるのである。



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