スキップしてメイン コンテンツに移動

正5-6『第五即心是仏』第六段〔もしものの真相がはっきりすれば、どこにも今の様子の他に何もないのである〕


〔『正法眼蔵』原文〕

 このゆゑに古人いはく、「若人識得心、大地無寸土《若し人、心を識得せば大地に寸土スンド無し》」。


 しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落ガイテンボクラクし、匝地裂破ソウチレッパす。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。



〔抄私訳〕

「心」の究尽する時節には、「大地無寸土」と言われる「心」が「心」である時節には、「蓋天撲落し、匝地裂する」(天全体が崩れ落ち、地全体が引き裂かれる)のである。


そのわけは、「心」の一法が独立する姿が、「撲落し」「裂破する」のである。全て「心」の外に、物が交わることがない道理であり、肩を並べるものがない意味である。


或いは、「心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます」とは、「心」の究尽する時は、「心」の外に肩をならべる物がないので、「蓋天撲落し、匝地裂破す」と言われる。「山河」等を「心」と説く時、「あつさ三寸をます」としばらく言うのである。数にとらわれてはいけない、また増減が無いことである。


〔聞書私訳〕

/「古人いはく、『若し人、心を識得せば大地に寸土スンド無し』」とある。

「三界唯一心」とは、識心(心のはたらきの主体としての八識)を見きわめると、わずかな「土」もないのである。そうであるなら、また「蓋天も撲落し」、「匝地も裂破する」のである。


/或いは、「心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます、」と言う。「心」を用いて「心」を説く時は、前に言ったように、「蓋天撲落し、匝地裂破する」のである。また、「山河大地」のように「撲落」もせず、「裂破」とも言わず、「山河」を働かさないで「心」と説く時は、「あつさ三寸をます」道理があるというのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 だから古人(長霊守卓禅師)は言う、「もしものの真相がはっきりすれば、

どこにも今の様子の他に何もないのである。」と。

(このゆゑに古人いはく、「若人識得心、大地無寸土《若し人、心を識得せば大地に寸土スンド無し》」。)

〔ホーホケキョ!と聞こえる時は、ホーホケキョ!の様子の他には何もないのです。〕


 知るべきである、ものの真相がはっきりするとき、天全体が落ち、地全体が裂けるのである(何もかもその様子があるだけである)。

(しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落し、匝地裂破す。)


或いは、ものの真相がはっきりすれば、

大地が更に厚さを三寸増やす(真相がより明確になる)のである。

(あるひは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸をます。)

 


                       合掌



ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5a(正法眼蔵)

  第四段⑤ 〔『正法眼蔵』原文〕  「無智疑怪 ムチギケ 、即為永失 ソクイヨウシツ 《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。 智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、 一時の春松 シュンショウ なる有あり、秋菊 シュウキク なる無あり。 この「無智」のとき、三菩提みな疑怪 ギケ となる、尽諸法みな疑怪なり。 このとき永失即為なり。 所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕                                「智無き者は疑い怪しむ為に永遠に真理を失う」という言葉がある。 智は必ずしも有でもなく、必ずしも無でもないが、 ある時は春の松の有があり、秋の菊の無があるのである。 この「無智」の時、無上菩提 (この上ない悟り) は、 すべて「疑い怪しむもの」となり、すべてのものが「疑い怪しむもの」となる。 この時こそが「永失即為 (永遠に真理を失うということが無上菩提の為すところである) 」 なのである。 聞くべき道も、証すべき法も、すべてが「疑い怪しむもの」となるのである。 世界の隅々に至るまで隠れる場所はなく真理はあらわれているから、 疑い怪しむことそのものは自分がやっていることではないのである 。 春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

六祖の昔は新州の木こりであった『第十七恁麼』17-4-3b(聞書抄)

  〔聞書原文〕 /古教ありとしらんと云ふ。 是は、古教照心と云ふるき詞あり、近代の禅僧は祖師の言句を 推度 スイタク(オシハカル) する事あるべからず、はじめてわれとこそ法をば得れと云ふ。 尤古教照心の義にはそむくべし。 仏の言句、祖師の語話 ゴワ をこそ、よくよく校合 コウゴウ 了見すべけれ。 不然者、経論すべて無詮なり。 〔聞書私訳〕 /「古教ありとしらん」と言う。 これは、「古教照心 (古の教えが心を照らす) 」という古い言があるにもかかわらず、 近年の禅僧は祖師の言葉を深く考えることなく、 「自分が初めて法を得たのだ」と主張する傾向にある。 これはもっとも「古教照心」の教えに反するものである。 仏の言葉や祖師の語録を、 入念に校合 キョウゴウ (基準とする本文に照らして 本文の異同を確かめること) し、 深く考察すべきである。 そうしなければ、経論 (経典と注釈書) もすべて意味をなさなくなってしまうのである。                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村

有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6a(正法眼蔵)

  恁麼⑥ 〔『正法眼蔵』原文〕 われにあらず、遍界かくるゝところなし。 たれにあらず、万里 バンリ 一条鉄なり。 たとひ恁麼して抽枝 チュウシ なりとも、 「十方仏土中、唯有一乗法」なり。 たとひ恁麼して葉落すとも、 「是法住法位 ゼホウジュウホウイ 、世間相常住 セケンソウジョウジュウ 」なり。 「既是恁麼事 キゼインモジ 」なるによりて、 有智と無智と、日面 ニチメン と月面 ガチメン となり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 自分以外の誰でもないからこそ、 万里の彼方まで一本の鉄のように真理は貫かれているのである。 たとえこのように真理が新しい枝を出すとしても、 それは「十方の仏の国土の中には、ただ一つの真実の教えしかない」ということである。 たとえこのように真理が葉を落とすとしても、 それは「この法は法位に住し、世間の相常住なり (この仏の教えは、真如という普遍不変の法の位に安住しており、一見無常に見えるこの世の現象も、実はそのままの姿で真理に照らされており、永遠である) 」ということである。 既にかくの如きありようであるから、 「有智」と「無智」は、日面の仏と月面の仏のように、 ただ同じ真理の異なる面として現れるのである。                             合掌 有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村