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正3-9-1②『第三仏性』第九段その1②〔「悉有仏性」=「有仏性」=「無仏性」〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕

塩官有仏性の道、

たとひ古仏とともに一隻セキの手をいだすににたりとも、

なほこれ一条拄杖イチジョウシュジョウ両人昇リョウニンヨなるべし。



〔抄私訳〕

・また、「塩官の有仏性の道、たとひ古仏とともに一隻の手をいだすににたりとも、なほこれ一条拄杖両人昇なるべし」とは、塩官の「有仏性」と、釈尊の「悉有仏性」が、ただ同じことを言っているところを、「古仏(釈尊)とともに」と示されるのである。


このように共に片手を出して、釈尊と塩官が一本の拄杖をかついでいるほどの道理であるというのである。これは塩官の「有仏性」が古仏の「悉有仏性」の言葉に似ているところを「両人昇」(二人でかつぐ)と言われるのである。



〔聞書私訳〕

/およそ、祖師が仏法を示されるときに、言葉もいろいろであり、振る舞いも異なるのである。そのわけは、黄檗オウバクが棒を与え、臨済が喝し、打地和尚が地を打って説法するなど、このようにいろいろであるからである。だから、今の大潙の「一切衆生無仏性」の言葉は、驚くべきことではない。


発心求道する者は「有仏性」であり、自調自度(自分のために心を調え、自分だけを救う)の者《二乗》は「無仏性」だなどと言うのではない。この有無の字は、世間で使う有無とは遙かに異なり、解脱の有無であるが、教家では、すべて世間の考えに準じて有無を説くのである。


たとえ外縁に引かれても、内薫(衆生の心の内が薫習クンジュウする)密益(人知れず利益リヤクする)して、仏性は具えているなどと言うだけでは、およそ仏性とはいえないのである。


/又、「無仏性」の「無」は、法相宗等で五性各別(一切衆生を先天的に決定されている本性から五種の存在に分ける)として説くこととは違う。永く成仏しないものを「無仏性」と言おうとするのでもない。


成仏とは現れる時のことであり、仏性とはまだ現れない時のことと心得るのは間違いである。坐禅を坐仏〈坐る仏〉と体達タイダツ(全体通達)したからには、期待して待つ成仏ではないのである。〔「一寸イッスン坐れば一寸の仏である」ということがある。〕 



〔『正法眼蔵』私訳〕

塩官の有仏性の言葉は、

たとえ古仏(釈尊)と共に片手を出し合って仏性の義を発揮しているようであっても、

やはりこれは一本の杖を二人がかりでかついでいるというものである。

(塩官有仏性の道、たとひ古仏とともに一隻の手をいだすににたりとも、なほこれ一条拄杖両人昇なるべし。)


 

                             合掌


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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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