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正3-8-3後半『第三仏性』第八段その3後半〔一切の仏性は有衆生である〕


〔聞書私訳〕

 /「今日の道得いたづらに宗旨なきにあらず」とは、さきに「承当の期なきにあらず」と言う言葉を、「宗旨」と言われるのである。


/「道取にかかれる生々」とは、迷妄の衆生が生々を経るのは、みな道取(言い表すこと)に関わっているのである。


/「道取も一生に道取することもあり」と言えば、今生におてすぐに仏性を道取する(言い表す)こともあるというのである。しかし、我々には前生もあったであろうが、それは道取に関わるものであったのであろう。


この道取にはずれる六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・天上・人間)四生(胎生・卵生・湿生・化生)はない。自分が道取しなかった間は、道取に関わっていたのである。そうであるからこそ、「みづから会取せざれども、四大五蘊もあり、皮肉骨髄もあり。しかあるがごとく、道取も一生に道取することもあり、道取にかかれる生々もあり」と釈されるのである。道取と言うのも仏性、皮肉骨髄と言うのも仏性なのである。


/ただ、このように解脱したなら、「生々」といっても一生二生と数えてはならない。生々はただ一生と心得るべきである。


/迷った時は「生々」はあるが、悟った後は、一生よりほかの置き場所はないのである。たとえば、海水を一杓イッシャクんで持っている間は、一杓と思っているが、本の海に入れると、一杓の水がどこまでという際限は見えない。大海の水だけが見えるので、この「生々」も、結局は一生であるというのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

だから、一切の仏性は有衆生であるのである。(しかあれば、一切仏性有衆生なり。)

  

つまりその道理は、衆生を説いて衆生を超えるだけでなく、仏性を説いて仏性をも超えるのである。(これその道理は、衆生を説透するのみにあらず、仏性をも説透するなり。)


国師がたとえ会得した仏法の道理を説き尽くすことができないとしても、説き尽くせる時期がないわけではないのである。(国師たとひ会得を道得に承当せずとも、承当の期なきにあらあず。)


今日説き得たことが、役に立たず、根本の趣旨がないわけではないのである。(今日の道得は、いたづらに宗旨なきにあらず。)


また、この身心に具わっている道理を、まだ必ずしも自ら理解あいていなくても、四大五蘊〈身体を構成する四要素と五種の心作用の集り〉も皮肉骨髄(全身)もこの身心に具わっているのである。(また、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから会取せざれども、四大五蘊もあり、皮肉骨髄もあり。)


そのように、言い表すことも一生の内にできることもあり、言い表すのに何生もかかることもあるのである。(しかあるがごとく、道取も一生に道取することもあり、道取にかかれる生々も有り。)


                             合掌


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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...