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正2-6-1 『第二摩訶般若波羅蜜』第六段その1 〔般若波羅蜜は仏世尊だ、仏世尊は般若波羅蜜だ〕

 〔『正法眼蔵』原文〕                         

釈迦牟尼仏シャカムニブツの言ノタマワく、                  

「舎利子シャリシ、是れ諸モロモロの有情ウジョウ、此の般若波羅蜜多ハンニャハラミタに於いて、仏の住したまふが如く供養クヨウし礼敬ライキョウし、思惟シユイすべし。  

般若波羅蜜多を思惟すること、応に仏薄伽梵ブツバギャボンを供養し礼敬するが如くすべし。  

所以ユエは如何イカン。般若波羅蜜多は仏薄伽梵に異ならず、仏薄伽梵は般若波羅蜜多に異ならず。                      

般若波羅蜜多は、即ち是れ仏薄伽梵なり。仏薄伽梵ブツバギャボンは、即ち是れ般若波羅蜜多なり。                     

何を以ての故に。                        

舎利子、一切の如来ニョラオウ正等覚ショウトウガクは、皆般若波羅蜜多より出現することを得るが故に。                     

舎利子、一切の菩薩摩訶薩ボサツマカサツ・独覚ドッカク・阿羅漢アラカン・不還フゲン  一来イチライ・預流果ヨルカ等、皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に。               

舎利子、一切世間の十善業道ジュゼンゴウドウ・四静慮シジョウロ・四無色定シムシキジョウ・五神通ゴジンツウ、皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に」。                 

しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜は是諸法なり。     

この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。   

この般若波羅蜜多の現成せるは、仏薄伽梵ブツバギャボンの現成せるなり。問取すべし、参取すべし。                    

供養礼敬クヨウライキュオウする、これ仏薄伽梵に奉覲承事ブゴンショウジするなり、奉覲承事の仏薄伽梵なり。

正法眼蔵摩訶般若波羅蜜第二                   

爾時ニジ天福元年 夏安居ゲアンゴ日在観音導利院示衆           

寛元二年甲辰ヒノエタツ春三月二十一日 越宇エツウ吉峯精舎キッポウショウシャに侍ハベりて之を書写す 懷奘エジョウ


〔抄私訳〕                            

「仏薄伽梵ブツバギャボンを供養礼敬クヨウライキョウする」(仏世尊を供養し礼敬する)道理が、全般若〈不生不滅の境界に渡す般若の智慧のはたらき〉である。「般若波羅蜜多は即ち是れ仏薄伽梵bhagavat=世の中で最も尊い人なり、仏薄伽梵は即ち是れ般若波羅蜜多なり」とあり、明らかである。「一切の如来〈このようにある仏〉・応供(供養に応ずるに足る仏)・正等覚(仏の無上の智慧)は、皆、般若波羅蜜多より出現することができるからである」とある、この応供・正等覚はみな般若であるから、このように説かれるのである。


「十善業道(十種の善業を行じること)、色界(欲望を離れた正常な物質の世界)の四段階の禅定、無色界(精神作用にのみ住む世界)の四段階の禅定、五神通力(五種の超人的はたらき)」などはみな小乗の修行である。一切の如来・応供・正等覚はみな般若波羅蜜多によって出現することができるのであるから、仏世尊は般若波羅蜜多であると説かれる。一切の菩薩摩訶薩・独覚・阿羅漢・不還・一来・預流果等は、皆般若波羅蜜多によって出現することができるのであるから、この般若の上では、決して大乗仏教と小乗仏教の違いを論ずべきではないというのである。


諸法〈森羅万象〉を指して、「空相なり〈有るに非ず無きに非ず無我のすがたである〉、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増えず減らずなり」とも言うことができる。この道理の響く所が、仏薄伽梵に奉覲承事ブゴンショウジする〈仏世尊にまみえ身心を捧げて仕える〉ことである、だから「仏薄伽梵に奉覲承事するなり」とこの段を結ばれるのである。行じる仏世尊、行じられる奉覲承事と理解してはならないのである。          


〔聞書私訳〕                           

/「仏薄伽梵ブツバギャボンbhagavat=世の中で最も尊い人とは仏であり、般若波羅蜜多である。        


/「仏薄伽梵は般若波羅蜜多に異ならず、般若波羅蜜多は仏薄伽梵に異ならず」とは、色即是空〈まわりにあるものは実体がなく〉、空即是色〈実体のないのがまわりにあるもの〉である。色不異空〈まわりにあるものは実体のないものと異ならない〉、空不異色〈実体のないものはまわりにあるものと異ならない〉である。                              


/「烈焔亘天レツエンコウテン(烈しい火焔が天を亘ワタる)は、ほとけが法を説くということであり、「亘天烈焔」(天を亘るのは烈しい火焔である)は、法がほとけを説くということである〕という言葉も、「一方を証すれば一方はくらし」〈一方を認識すれば一方は認識されない〉というのも、これくらいのことである。                           


/「仏薄伽梵ブツバガボンに奉覲承事ブゴンショウジするなり、奉覲承事の仏薄伽梵なり」という、「奉覲承事」の言葉を、前後に打ち換えて言うことは、親切に説く趣旨である。「奉覲」が特別であり、「仏薄伽梵に承事する」と言わない趣旨である。            


/問う、「天帝釈テンタイシャクと具寿善現グジュゼンゲン(須菩提)の問答ばかりで、仏のお言葉は見えない。もっぱら須菩提シュボダイの答えと思われるが、どうか。」。              


/答える、「この非難には理由が有る。しかし、このように仏に代わって答えを奉ることは、慣例となっていることである。須菩提が仏に代わって説くことは、いかにも仁(仁愛)に当たるか。       


/「一切の如来応正等覚は皆般若波羅蜜多に由り」の「皆由」(皆〇〇による)という言葉は、あちこちに有る。この「皆由」は「悉有」の道理である。『正法眼蔵第三仏性』の巻にある「一切衆生、悉有は仏性なり」の道理である。                   

    

/つまる所、この「摩訶般若波羅蜜」〈不生不滅の境界に渡す絶大なる般若の智慧のはたらき〉を理解するには、第一巻の『現成公案』〈現前することは無我である真の在り様である〉を本としてよく考えるべきである。「照見」、「五蘊」、「般若」と聞くからには、何か残るものがあろうか。「色受想行識」は皆な空であると説き、般若であると解脱するのである。又、「空即是色」〈実体がないものがまわるにあるものである〉だから、「百草万象」〈百草のありとあらゆるものはみな空だ、また万象のかき、かべ、瓦、小石も何もかもみな空だ〉・「十二入」(眼耳鼻舌身意の六根と、色声香味触法の六境)・「十八界」(十二入に眼識耳識鼻識舌識身識意識の六識を加えた現象世界)・「苦集滅道」(苦の原因と苦を解脱する道を示す四諦)・「布施」・「浄戒」・「安忍」(忍耐)・「精進」・「静慮」(禅定)は、ことごとく「般若波羅蜜」であり、「阿耨多羅三藐三菩提アノクタラサンミャクサンボダイ(仏のさとりである無上正等正覚)である。「過去・現在・未来」、「地水火風空識」(万物を構成する六大)、「行住坐臥」(日常の立ち居振る舞い)も、残る所なくみな般若である。


だから、我々のあらゆる世界、あらゆるものは、皆般若であると理解することが肝要だと思う。こういう考えは、非常に誤った考え方である。どうして顛倒した造悪の衆生が「阿耨多羅三藐三菩提」でありえようか。新しく成る仏も、本来成仏と言って、これまでは昨夜の夢のようだと解脱する時こそ、仏も衆生も異なるものではない。


ここに記載している「百草万象」より「行住坐臥」に至るまでを、「諸法の仏法なる時節」には、「迷悟・修行・生仏(衆生・諸仏)」が有るように理解して、「豊倹」(ゆたか・つづまやか)を超越した「照見」〈自己が忘じられた境界キョウガイ〉・「五蘊」〈五つの観念の集まりである身心〉・「色受想行識」等となるのである。「花は愛惜アイセキに散り、草は棄嫌キケン」に生オウるのみなり」という言葉も忘れてはならない。又、「色是色」、「空是空」、と説くけれども、只、「悟上に得悟する漢、迷中又迷の漢」(悟の上に悟を得る人、迷の中でまた迷う人)と理解するのである。色受想行識も、法性〈法の本性〉の「色受想行識」は、滅することがないものである。「眼耳鼻舌身意」等も又滅することがないのである。


しかし、世間では観音の千手千眼と言うことも、御身は一つで、御眼・御手を千作って、衆生の願いの一つ一つに、この千手千眼をお与えなさるのだと理解するのは、三界(衆生の三種の迷いの世界)の考えを離れることができないのである。千手千眼も、今ここで理解するように、『正法眼蔵第十八観音の巻』に「通身是手眼ツウシンゼシュゲン(身体中が手眼である)、「遍身是手眼」とあるのは、「許多コタ手眼」(多くの手眼)であって、凡夫には量ることができない、際限の無いという意味である。


総じて、「敬礼キョウライ」ということも、「守護」ということも、するものとされるものを異なるものとしていうのではない。「般若」を、そのまま「敬礼」とも「守護」とも説くので、観る菩薩と、観られる我々があるわけではないのである。          


/「諸法の生滅は無しと雖も」とありながら、「戒定慧施設可得」乃至「度有情類施設可得」(戒定慧というなし得ることから衆生救済というなし得ることまで)と言うべきではない。そうであるけれども、「諸法の仏法なる時節」〈森羅万象が仏法である時節〉に迷いを説き、或いは「大海は死屍シシを宿トドめず」などと説くのは、仏道の慣例と知るべきである。     


/「当に虚空の如く学ぶべし」というのも、「色即是空・空即是色」と理解すれば、この「空」は世間の空ではない。           


/「受持し読誦し理の如く思惟し他の為に演説する」というのも、「汝は守護すべき法が何か有ると思うか否か」という時は、「私は守護すべき法が何か有るとは思わない」ということである。         


/又、「一切の人間や人間以外のもの(天竜八部衆や悪魔など)たちが、其の機会を尋ね求めて、損ない傷つけようとしても、結局できなかった」とある。守護すべき法が何か有ると見ないのであるから、尋ね求めようとする人間も人間以外のものもあるはずがない。まして、損ない傷つけるとはどのようなことであるのか、般若が般若を損ない傷つけようとするのか。それは「迷いの中でまた迷う」ことであり、驚くまでもないことである。


/「供養」・「礼敬」・「思惟」・「仏薄伽梵」・「般若」は、同じである。「諸法は空相〈すべての現前するものは空無自性のすがた〉なり、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増えず減らずなり」と言って、すぐに、「この般若波羅蜜多が現成するのは仏薄伽梵が現成することである」とある。「天にわたる烈しい火焔は、仏が法を説くであり、烈しい火焔が天にわたるのは、法が仏を説く」というほどの道理である。


〔『正法眼蔵』私訳と『正法眼蔵』評釈は、次回にお届けします。〕 


*注:《 》内は御抄編者補足、〔 〕内は著者補足、( )内は辞書的注釈、〈 〉内は独自注釈。

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