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第一祖摩訶迦葉尊者、十二の頭陀行『正法眼蔵第十六行持』16-3-1a

〔『正法眼蔵』原文〕                          

 第八祖摩訶迦葉尊者マカ カショウ ソンジャは、釈尊の嫡嗣チャクシなり。


生前ショウゼンもはら十二頭陀ヅダを行持して、さらにおこたらず。


十二頭陀といふは、                   


一者不受人請、日行乞食。亦不受比受丘僧一飯食分銭財

《一つには、人の請ショウを受けず、日ヒビに乞食を行ず。

 亦マタ比丘僧ビクソウの一飯食分イッパンジキ   ブンの銭財を受けず》。              

  

二者止宿山上、不宿人舎郡県聚落

《二つには、山上に止宿シシュクして人舎ニンシャ郡県グンケン聚落ジュラクに宿シュクせず》。                                       


三者不得従人乞衣被、人与衣被亦不受。但取丘塚間、死人所棄衣、補治衣之

《三つには、人に従って衣被エヒを乞うことを得ず。人の与うる衣被も亦 受けず。

 但タダ丘塚キュウチョウの間の死人の棄つる所の衣を取って、補治ホジして之を衣る》。                              

 

四者止宿野田中樹下

《四つには、野田ヤデンの中の樹下ジュゲに止宿す》。             


五者一日一食。 一名僧迦僧泥

《五つには、一日に一食イチジキす。一アルイハは僧迦僧泥スンカスンナイと名づく。  

 

六者昼夜不臥、但坐睡経行。一名僧泥沙者傴

《六つには、昼夜不臥フガなり、但坐睡経行キンヒンす。一は僧泥沙者傴スンナイサシャキュウと名づく》。                


〔『正法眼蔵』私訳〕                         

第一祖摩訶迦葉尊者は、釈尊の正法眼蔵を正伝する弟子である。

一生の間、もっぱら十二の頭陀(煩悩の垢を払い落とし、衣食住に貪りを持たず、

ひたすらに仏道修行を行うことを行持して、決して怠ることがなかった。

(第八祖摩訶迦葉尊者は、釈尊の嫡嗣なり。

 生前もはら十二頭陀を行持して、さらにおこたらず。)


十二の頭陀とは、(十二頭陀といふは、)

一つには、人の招待を受けず、毎日托鉢タクハツを行じる。

また僧が托鉢した一食分の金銭を受け取らない。

(一つには、人の請を受けず、日に乞食を行ず。亦比丘僧の一飯食分の銭財を受けず。     

二つには、山上に泊まって、人家、郡県、部落に泊まらない。

(二つには、山上に止宿して人舎郡県聚落に宿せず。)                                   

三つには、人に従って衣を乞うことをせず。

人が与える衣もまた受け取らない。

ただ墓場に棄ててある死人の衣を取って、

自分で繕い直してこれを袈裟とする。

(三つには、人に従って衣被を乞うことを得ず。人の与うる衣被も亦 受けず。

 但丘塚の間の死人の棄つる所の衣を取って、補治して之を衣る。)   


四つには、野の畑の中の樹の下に泊まる。

(四つには、野田の中の樹下に止宿す。)        


五つには、一日に一度だけ食事をとる。

これをスンカスンナイと呼ぶ。

(五つには、一日に一食す。一は僧迦僧泥と名づく。)                               


六つには、昼夜にわたって横臥せず、ただ坐睡し、

時に起きて静かに歩く。これはスンナイサシヤキュウと呼ぶ。

(六つには、昼夜不臥なり、但坐睡経行す。一は僧泥沙者傴と名づく。)         


                    

                   合掌


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