スキップしてメイン コンテンツに移動

その時そのものにあい見えて余物がない道理である『第十五光明』15-4-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 保福、挙問鵞湖、僧堂前且置、什麼処望州亭、烏石嶺相見

 《保福、挙して鵞湖ガコに問ふ、僧堂前は且く置く、

  什麼イズレの処か望州亭ボウシュウテイ、烏石嶺ウセキレイの相見ショウケンなる》。


鵞湖、驟歩帰方丈《鵞湖、驟歩シュウホして方丈に帰る》。


保福、便入僧堂《保福便ち僧堂に入る》。


いま帰方丈、入僧堂、これ話頭出身なり。


相見底の道理なり、相見了也僧堂なり



〔『正法眼蔵』私訳〕

 雪峰門下の保福が、鵝湖に問うた、

「僧堂前であい見えたことはしばらく置くとして、

どこで望州亭と鳥石嶺にあい見えることができるのか」。

(保福、挙問鵞湖、僧堂前且置、什麼処望州亭、烏石嶺相見

《保福、挙して鵞湖に問ふ、僧堂前は且く置く、

 什麼の処か望州亭・烏石嶺の相見なる》。)


鵝湖は、小走りで方丈に帰った。

(鵞湖、驟歩帰方丈《鵞湖、驟歩して方丈に帰る》。)

方丈に帰ることが望州亭とあい見えることである。


保福は、するとすぐに僧堂に入った。

(保福、便入僧堂《保福便ち僧堂に入る》。)

僧堂に入ることが鳥石嶺とあい見えることである。


今方丈に帰った、僧堂に入った、

これは話にとどまらない具体的な行いである。

(いま帰方丈、入僧堂、これ話頭出身なり。)


その時そのものにあい見えて余物がない道理である。

僧堂が僧堂とあい見えおわったということである。

(相見底の道理なり、相見了也僧堂なり。)



                    合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント