〔『正法眼蔵』原文〕
雲門自代云、「僧堂・仏殿・廚庫・三門」。
いま道取する自代は、雲門に自代するなり、
大衆に自代するなり、光明に自代するなり。
僧堂・仏殿・廚庫・三門に自代するなり。
しかあれども、雲門なにをよんでか
僧堂・仏殿・廚庫・三門とする。
大衆および人々をよんで僧堂・仏殿・廚庫・三門とすべからず。
いくばくの僧堂・仏殿・廚庫・三門かある。
雲門なりとやせん、七仏なりとやせん。
四七なりとやせん、二三なりとやせん。
拳頭なりとやせん、鼻孔なりとやせん。
いはくの僧堂・仏殿・廚庫・三門、
たとひいづれの仏祖なりとも、人々をまぬかれざるものなり。
このゆゑに人々にあらず。
しかありしよりこのかた、
有仏殿の無仏なるあり、無仏殿の無仏なるあり。
有光仏あり、無光仏あり。
無仏光あり、有仏光あり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
雲門が代わって自ら答えた、「僧堂・仏殿・庫裏・三門」。
(雲門自代云、僧堂仏殿廚庫三門。)
今言う自ら代ってとは、
光明の雲門が光明の雲門に代って言うのであり、
光明の大衆が光明の大衆に代わって言うのであり、
光明が光明に代って言うのであり、
光明の僧堂・仏殿・庫裏・三門が
光明の僧堂・仏殿・庫裏・三門に代って言うのである。
(いま道取する自代は、雲門に自代するなり、大衆に自代するなり、
光明に自代するなり。僧堂仏殿廚庫三門に自代するなり。)
そうではあるが、雲門は何を呼んで
僧堂・仏殿・庫裏・三門と言うのか。
(しかあれども、雲門なにをよんでか僧堂仏殿廚庫三門とする。)
大衆および人々を呼んで
僧堂・仏殿・庫裏・三門と言うことはできない。
(大衆および人々をよんで僧堂仏殿廚庫三門とすべからず。)
〔どちらも光明であるが、それぞれ独立しているからである。〕
どれほどの僧堂・仏殿・庫裏・三門があるか。
(いくばくの僧堂仏殿廚庫三門かある。)
〔底意は、僧堂・仏殿・庫裏・三門が
その時その時に独立していくらでもある。〕
光明は雲門であるのか、過去七仏であるのか、
西天二十八祖であるのか、震旦六祖であるのか、
拳頭コブシであるのか、鼻孔であるのか。
(雲門なりとやせん、七仏なりとやせん、四七なりとやせん、
二三なりとやせん、拳頭なりとやせん、鼻孔なりとやせん。)
〔「とやせん」「とやせん」とあるのは、これらはみな門処の道得で、
尋ねていながら、共に光明であると答えているのである。〕
いわゆる僧堂・仏殿・庫裏・三門、〔雲門・七仏・四七・二三・拳頭・鼻孔
はみな光明であり〕たとえいずれの仏祖であっても、
人々の光明を免れ得ないのである。
(いはくの僧堂仏殿廚庫三門、たとひいづれの仏祖なりとも、
人々をまぬかれざるものなり。)
そのために、それは単に人々ではなく、光明なのである。
(このゆゑに人々にあらず。)
このように光明が説かれてからこれまで、
(しかありしよりこのかた、)
〔雲門・七仏・四七・二三・拳頭・鼻孔が、僧堂・仏殿・庫裏・三門に
蔵身すれば、仏殿の独立独歩となるから、〕
仏殿が有る時は無仏だということになり、
(有仏殿の無仏なるあり、)
〔僧堂・仏殿・庫裏・三門が、雲門・七仏・四七・二三・拳頭・鼻孔に
蔵身すれば、仏祖の独立独歩となるから、〕
仏殿が無い時は有仏だということになる。
(無仏殿の無仏なるあり、)
光の有る仏(有仏性:悟りがぴかぴか光っている人)があり、
光の無い仏(無仏性:悟りをまったく忘れてしまった人)がある。
(有光仏あり、無光仏あり。)
仏の無い光(無仏性)があり、仏の有る光(有仏性)があるのである。
(無仏光あり、有仏光あり。)
雲門が代わって自ら答えた、「僧堂・仏殿・庫裏・三門」『第十五光明』15-3-3b
合掌
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