〔『聞書』私訳〕
/「有仏殿の無仏」、「無仏殿の無仏」と言うのは、これに二つの義がある。
一つは、「有仏殿」で「仏」を待つべきでないから、「無仏」と言う。これは、「有仏」は必ずしも「殿」を待つべきでないから、「無仏殿」と言い、「仏」と「殿」は差別がないということである。
二つは、「有」の「仏殿」があり、「無」の「仏殿」があり、仏有と仏無は同じであるということである。たとえば、「有仏性」「無仏性」の「有」「無」のようなことである。「光明」などの「有」「無」もこのようなことである。つまり、この「有仏殿の無仏」、「無仏殿の無仏」などと言うのは、「光明尽有人々在」の意に符号するのである。
〔『抄』私訳〕
「雲門自代云、僧堂・仏殿・廚庫・三門。いま道取する自代は、雲門に自代するなり、大衆に自代するなり、光明に自代するなり。僧堂・仏殿・廚庫・三門に自代するなり」とある。
これは、「大衆」に代わって「雲門」が言ったと思われるところを、今の道理は、「雲門に自代するなり「光明に自代するなり。僧堂・仏殿・廚庫・三門に自代するなり」とある。
その理由は、今呼び出される「雲門」と「光明」と「僧堂・仏殿・廚庫・三門」は、ただ同じものであるからである。だから、これは彼に「自代」し、彼はこれに「自代」するというのは、ただ同じ道理がこのように言われるのである。仏性が、蚯蚓キュウインとも狗子クシとも、あるいは有とも無とも言われたようなことである。
「しかあれども、雲門なにをよんでか僧堂・仏殿・廚庫・三門とする。大衆および人々をよんで僧堂・仏殿・廚庫・三門とすべからず。いくばくの僧堂・仏殿・廚庫・三門かある。雲門なりとやせん、七仏なりとやせん。四七なりとやせん、二三なりとやせん。拳頭なりとやせん、鼻孔なりとやせん」とある。
「雲門に自代するなり」、「光明」あるいは「僧堂・仏殿・廚庫・三門」「拳頭」「鼻孔」に自代するなり」とあるが、またしばらくここでは、「雲門なにをよんでか僧堂・仏殿・廚庫・三門とする」といって、「僧堂・仏殿・廚庫・三門とすべからず。いくばくの僧堂・仏殿・廚庫・三門かある」といって、「雲門なりとやせん、〔七仏なりとやせん。四七なりとやせん、二三なりとやせん。〕拳頭〔なりとやせん〕、鼻孔〔なりとやせん〕」とある。
「僧堂・仏殿・廚庫・三門」の言葉でない所を「いくばくの僧堂・仏殿・廚庫・三門かある」と言うのである。今の「雲門」は、「七仏」「四七」「二三」「拳頭」「鼻孔」などとあげられて、「せん」「せん」とある言葉は、みなこれらの義に当たるのである。
これはすなわち「光明」を「雲門」「七仏」「四七」「二三」「拳頭」「鼻孔」であると、「僧堂・仏殿・廚庫・三門」の言葉に取り替えても言うことができる所の道理をこのように言うのである。この外にも尽きることなく言葉があるのである。「四七」とは西天(インド)の二十八祖のことで、「二三」とは東土(中国)の六代である。
「いはくの僧堂・仏殿・廚庫・三門、たとひいづれの仏祖なりとも、人々をまぬかれざるものなり。このゆゑに人々にあらず」とある。
これは「雲門」に限らず、「いづれの仏祖なりとも、人々をまぬかれざるものなり」と言うのである。この道理の上ではまた、「人々にあらず」という義もあるのである。
「しかありしよりこのかた、有仏殿の無仏なるあり、無仏殿の無仏なるあり。有光仏あり、無光仏あり。無仏光あり、有仏光あり」とある。
この「光明」の道理は、確かにこのように言うことができるのである。「仏殿」と言えば「無仏」であり、「無仏殿の無仏」の道理もあるのである。「光仏」を「あり」と言い、「光仏」を「なし」と言う義もあり、また、「仏光」を「有」「無」と言う義もあるのである。「仏光」「光仏」は、「光」と「仏」が同体である時このように言われるのである。
合掌
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