〔『正法眼蔵』原文〕
しかあればしるべし、人々尽有の光明は、現成の人々なり。
光々、尽有の人々なり。
しばらく雲門にとふ、
なんぢなにをよんでか人々とする、なにをよんでか光明とする。
雲門みづからいはく、作麼生是光明在。
この問著は、疑殺話頭の光明なり。
しかあれども、恁麼道著すれば、人々、光々なり。
ときに衆無対。
たとひ百千の道得ありとも、無対を拈じて道著するなり。
これ仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心なり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
このようであるから知らなければいけない、
人々すべてにある光明とは、現前している人々のことである。
(しかあればしるべし、人々尽有の光明は、現成の人々なり。)
光々とは、すべての人々のことである。
(光々、尽有の人々なり。)
しばらく雲門に問う、
「汝は何を呼んで人々と言うのか、何を呼んで光明と言うのか」。
(しばらく雲門にとふ、
なんぢなにをよんでか人々とする、なにをよんでか光明とする。)
雲門が自ら言う、「光明があるとはどういうことか」。
(雲門みづからいはく、作麼生是光明在。)
この問いは、
疑っているようであるが光明を言い抜いているのである。
(この問著は、疑殺話頭の光明なり。)
そうであるので、「光明があるとはどういうことか」と言えば、
どのような人々も光明なのである。
(しかあれども、恁麼道著すれば、人々、光々なり。)
その時、大衆は対コタえなかった。
(ときに衆無対。)
たとえ百千の言うことがあっても、対えないことで、
人々に尽く光明がある道理を十二分に言いぬしているのである。
(たとひ百千の道得ありとも、無対を拈じて道著するなり。)
これこそが、仏祖が正伝してきた正法眼蔵涅槃妙心である。
(これ仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心なり。)
人々すべてにある光明とは、現前している人々のことである『第十五光明』15-3-2b
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。

コメント
コメントを投稿