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人々すべてにある光明とは、現前している人々のことである『第十五光明』15-3-2a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 しかあればしるべし、人々尽有の光明は、現成の人々なり。


光々、尽有の人々なり。


しばらく雲門にとふ、

なんぢなにをよんでか人々とする、なにをよんでか光明とする。


 雲門みづからいはく、作麼生是光明在。


 この問著は、疑殺話頭の光明なり。


しかあれども、恁麼道著すれば、人々、光々なり。


 ときに衆無対。


 たとひ百千の道得ありとも、無対を拈じて道著するなり。


これ仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心なり。




〔『正法眼蔵』私訳〕

このようであるから知らなければいけない、

人々すべてにある光明とは、現前している人々のことである。

(しかあればしるべし、人々尽有の光明は、現成の人々なり。)


光々とは、すべての人々のことである。

(光々、尽有の人々なり。)


しばらく雲門に問う、

「汝は何を呼んで人々と言うのか、何を呼んで光明と言うのか」。

(しばらく雲門にとふ、

なんぢなにをよんでか人々とする、なにをよんでか光明とする。)


雲門が自ら言う、「光明があるとはどういうことか」。

(雲門みづからいはく、作麼生是光明在。)


この問いは、

疑っているようであるが光明を言い抜いているのである。

(この問著は、疑殺話頭の光明なり。)


そうであるので、「光明があるとはどういうことか」と言えば、

どのような人々も光明なのである。

(しかあれども、恁麼道著すれば、人々、光々なり。)


その時、大衆は対コタえなかった。

(ときに衆無対。)


たとえ百千の言うことがあっても、対えないことで、

人々に尽く光明がある道理を十二分に言いぬしているのである。

(たとひ百千の道得ありとも、無対を拈じて道著するなり。)


これこそが、仏祖が正伝してきた正法眼蔵涅槃妙心である。

(これ仏祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心なり。)


人々すべてにある光明とは、現前している人々のことである『第十五光明』15-3-2b


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